16~17世紀
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ウクライナのザポロージェ・カザーク、ロシアのドン・カザークは、その集団の大きさからいっても、また歴史上に果たした役割からいっても、広い意味でのロシアのカザークを代表するものである。本項ではそれについて詳説する。 十六世紀末から十七世紀のはじめに、カザークの活動はその根拠地である地方からはるか遠くまでにも及び、黒海からカスピ海をまたにかけて、トルコやペルシアの海岸地方を荒しまわった。まさに日本史の倭寇を思いおこさせるものであった。また十六世紀の末のはじまったロシア人のシベリア経略の尖兵をはたしたのも、カザークであった。ロシアの民謡にもうたわれているイェルマークは、ヴォルガ流域で略奪をおこなって政府に追及されていたカザークでドンの出身と言われ、当時政府の特許をえてウラルに広大な所領をもって開発にあたっていたストロガノフ一族に部下のカザークとともに傭われて、西シベリアの遠征にでかけたのである。 十六世紀中頃から十七世紀初めにかけて、ロシアでは農奴制が法的に確立すう時期であり、政府支配の手が辺境の地にまで拡大していく時期であった。この農奴制の確立と普及に対する農民側の抵抗は、大量逃亡という形をとってカザーク集団が大きくなっていたことは、十七世紀に入ると農民の抵抗は、農民戦争といえる大規模な反乱の形をとるまでにいたった。こうした農民戦争は1606―07年のボロトニコフの乱、十七世紀末のステパン・ラージンの乱、1707―08年のブラーヴィンの乱、1773―75年のプガチョフの乱と四つをかぞえ、そのうちあとの四つは直接ドンのカザークが中心となっているものであり、最初のボロトニコフの乱にしても直接カザークが中心とはなっていないにしても、ドン・カザークが部隊として参加しており、個々にはザポロージェ・コサックも参加していた。以下ではラージンの乱がどのようにカザークの中から始まったか述べる。
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16 - 17世紀
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ウーマニ地方は、1569年からポーランド・リトアニア共和国に組み込まれた。1609年には、ブラツワフならびにヴィンニツァの領主であったアレクスィ・カルノフスキによって「ウーマニ」と命名する指令が出された。この名が初めて公式文書に現れるのは1616年のことで、このときウーマニは小都市(共同体;містечко)として記述された。この小都市は、ポーランド・リトアニア連合がディーケ・ポーレとの間に置いた警戒線に組み込まれ、クリミア・タタール人の浸入に備える堡塁として整備された。1629年には、ウーマニは木製の防御設備を要する要塞となり、1064戸を数える城砦の周囲には堀と土塁が築かれた。城砦小都市は、ポーランド・リトアニア連合のブラスワフ県に組み入れられた。 1648年にはウクライナ・コサックのボフダン・フメリニツキーの蜂起に呼応したイヴァーン・ハンジャーの部隊により占領され、この町を根拠地とするウーマニ連隊が置かれた。1648年から1667年まで、ウーマニは連隊都市および主要要塞としてヘーチマン国家の領域に属した。1654年末から1655年初めにかけて、イヴァーン・ボフーンに指揮されたウーマニのコサックはポーランド・シュラフタの軍隊の侵攻を退けた。しかし、1667年にモスクワ公国とポーランド・リトアニア連合との間で締結されたアンドルーソヴォ講和条約により、ウーマニは再びポーランドに領有されることとなった。 1670年から1674年にかけて、ウーマニには右岸ウクライナのヘーチマン・ムィハーイロ・ハネーンコが居住した。しかし、1674年には左岸ウクライナのヘーチマン・ペトロー・ドロシェーンコとオスマン帝国およびクリミア・ハン国の連合軍の侵攻により完全に破壊され、余多の住民が殺害された。この出来事のあとウーマニは衰退し、住民の多くは左岸ウクライナへ移住した。
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16-17世紀
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イングランド王国でオリバー・クロムウェルらによる清教徒革命で王政が廃止され、共和政のイングランド共和国(1649年 - 1660年)が成立した。1660年にはイングランド王政復古が行われたが、1688年の名誉革命などを通じて王権の制限が進められ、立憲民主主義や議院内閣制などの法の支配や議会制民主主義が形成された。
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16-17世紀
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北アメリカの南西部(現在の西部と中央アメリカを含む)を探検し、その南部地域で(東から西へと)大陸を横断するスペインの探検家やコンキスタドールが多数おり、主に16世紀半ばへ続く第2四半世紀にかけてはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカやフランシスコ・バスケス・デ・コロナドなどの人物がいたが、やはり北アメリカの南東部および南中央地域の道程であった。1500年代半ばにスペインのフアン・ロドリゲス・カブリリョがカリフォルニアの太平洋岸に至ったことを主張する一方で、200年後のガスパル・デ・ポルトラ探検隊による最初期の陸上探索は、スペイン支配下のバハ・カリフォルニアを起点に北方へとカトリック伝道所を創設した(カリフォルニア・ミッションを参照)。 1608年、サミュエル・ド・シャンプランは現在のケベック・シティーの基礎を築き、これは最初の永住入植地となり、ヌーベルフランスの首都となった。彼はその町および都市問題に関して個人的管理を行い、かつ内陸部を探索するために探検隊を派遣した。 シャンプラン自身は1609年にシャンプレーン湖を発見した。1615年までに、彼はニピシング湖とジョージア湾を通ってシムコー湖付近のヒューロンの中心部までオタワ川をカヌーで遡る旅をした。これらの航海中、シャンプランはイロコイ連邦と抗争を繰り広げていたウェンダット族(別名ヒューロン族)を援護した。 その結果イロコイ連邦からフランスは敵と見なされ、複数の紛争に巻き込まれることになった。 1679年から1682年まで、ルネ=ロベール・カヴリエ・シュ・ド・ラ・サールはアメリカ合衆国とカナダの五大湖地域、およびミシシッピ川の全域をメキシコ湾まで探検した。 1697年から1702年にかけて、エウセビオ・キノはソノラ砂漠を探検し、コロラド川三角州への彼の旅行にて、一般的に島であると信じられていたバハ・カリフォルニアへの陸路を発見した。1683年にキノは、ヨーロッパ人最初のバハ・カリフォルニア陸路横断を成し遂げた。 ヨーロッパ人のカナダ西部探検は、主に毛皮貿易および人目を避けた北西航路の探求によって動機づけられていた。 ハドソン湾会社の探検家ヘンリー・ケルシーは、1690年にグレートプレーンズ北部を確認した最初のヨーロッパ人という栄誉を得ている。
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16-17世紀
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ルネサンス期の間、神智学という用語から、ひとを神や媒介的諸霊の世界に結びつけるものを識ることを通じて個の照明と救済をもたらす霊智的な知識を指す言葉としての用法が生じた。16世紀のドイツでは、「キリスト教神秘主義」と「秘教的自然哲学」とを架橋するような神智学の潮流が興った。マイスター・エックハルトのようなドイツ神秘主義の伝統とパラケルスス(1493年-1541年)の錬金術的思想を結びつけたヴァレンティン・ヴァイゲル(1533年–1588年)がその代表である。 『永遠の叡智の円形劇場』(1595年)を著したパラケルスス主義者ハインリヒ・クンラート(英語版)(1560年-1605年)、『神聖なる権威の啓示』(1619年)という著作を遺したエギディウス・グートマン(ドイツ語版)(1490年-1584年)も16世紀末のドイツ神智学の重要人物に数えられる。しかしながら神智学という言葉はまだ確立した意味にまで達していなかった。というのもヨハネス・アルボレウスによる16世紀中葉の Theosophia は、長々とした説明を加えながらも秘教については何も触れなかったのである。 17世紀ドイツのキリスト教神秘家ヤーコプ・ベーメ(1575年-1624年)は、著作のなかで「神智学」という言葉を使うことはめったになかったが、かれの業績はその言葉が広まる大きな要因となった。それはベーメの著作のいくつかの表題によるものであるが、それらの表題はベーメ自身というよりも編集者らによって選ばれたものと思しい。 17世紀の神智家は比較的少数であったが、かれらの多くは多作であった。ドイツ以外では、オランダ、イングランド、フランスにも神智家がいた。その代表的人物はヤン・バプティスト・ファン・ヘルモント(1618年–1699年)、ロバート・フラッド(英語版)(1574年–1637年)、ジョン・ポーディジ(英語版)(1608年–1681年)、ジェーン・リード(英語版)(1623年–1704年)、ヘンリー・モア(1614年–1687年)、ピエール・ポワレ(フランス語版)(1646年–1719年)、アントワネット・ブリニョン(フランス語版)(1616年–1680年)である。 この時期の神智家たちは、神秘の完全な理解に向けて、象徴的意味を引出して知識追及を推し進めるために能動的想像を活用し、特定の神話ないし啓示に基づく解釈によって自然を探るという方法を取ることが多かった。
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16~17世紀
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「ラーガルフリョゥトルムリン」の記事における「16~17世紀」の解説
1585年のアブラハム・オルテリウスのアイルランド地図上に描かれたラーガルフリョゥトには「この湖には大蛇が出現し住民を脅かす。現るときは、画期的な事件がおこる前触れである」と付記されている。メルカトルによる1595年の地図も簡潔にその大蛇に触れている。 オッドゥル・エイナルスソン(アイスランド語版)主教の『アイスランド総誌(仮訳名)』(Qualiscunque descriptio Islandiae。1588–1589年頃)もラーガルフリョゥトの怪物に触れており、おそらく大蛇を指しているものとされる。 スカールホルト主教ギースリ・オッドソン(アイスランド語版)(1638年没)が著した『アイスランドの奇蹟について』(De mirabilibus Islandiae) の第6章にもラーガルフリョゥト川で目撃されるという大蛇についての言及がある。ノルウェー語を借りればそれは「砂浜の蛇」(strandvorm)と呼称される怪物であると記されている。その体の「くねり」がいくつあったかについては、1、2、あるいは3つと意見が分かれていたとされる。また川の氾濫を引き起こし、その時は大地も家屋も大いに揺れたという。
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