16~17世紀とは? わかりやすく解説

16~17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/21 07:10 UTC 版)

カザーク歴史」の記事における「16~17世紀」の解説

ウクライナのザポロージェ・カザーク、ロシアドン・カザークは、その集団大きさからいっても、また歴史上果たした役割からいっても、広い意味でのロシアカザーク代表するのである本項ではそれについて詳説する十六世紀末から十七世紀はじめにカザーク活動はその根拠地である地方からはるか遠くまでにも及び、黒海からカスピ海をまたにかけて、トルコペルシア海岸地方荒しまわった。まさに日本史倭寇思いおこさせるものであった。また十六世紀の末のはじまったロシア人シベリア経略尖兵はたしたのも、カザークであったロシア民謡にもうたわれているイェルマークは、ヴォルガ流域略奪をおこなって政府追及されていたカザークドン出身と言われ当時政府特許をえてウラル広大な所領をもって開発にあたっていたストロガノフ一族部下カザークとともに傭われて、西シベリア遠征でかけたのである十六世紀中頃から十七世紀初めにかけて、ロシアでは農奴制法的に確立すう時期であり、政府支配の手辺境の地にまで拡大していく時期であった。この農奴制確立普及対す農民側の抵抗は、大量逃亡という形をとってカザーク集団大きくなっていたことは、十七世紀に入ると農民抵抗は、農民戦争といえる大規模な反乱の形をとるまでにいたったこうした農民戦争は1606―07年のボロトニコフの乱、十七世紀末のステパン・ラージンの乱、1707―08年のブラーヴィンの乱、1773―75年プガチョフの乱四つをかぞえ、そのうちあとの四つ直接ドンカザーク中心となっているものであり、最初のボロトニコフの乱にしても直接カザーク中心はなっていないにしてもドン・カザーク部隊として参加しており、個々にはザポロージェ・コサックも参加していた。以下ではラージンの乱どのようにカザークの中から始まった述べる。

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16 - 17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/07/12 09:21 UTC 版)

ウーマニ」の記事における「16 - 17世紀」の解説

ウーマニ地方は、1569年からポーランド・リトアニア共和国組み込まれた。1609年には、ブラツワフならびにヴィンニツァ領主であったアレクスィ・カルノフスキによって「ウーマニ」と命名する指令出された。この名が初めて公式文書に現れるのは1616年のことで、このときウーマニ小都市(共同体;містечко)として記述された。この小都市は、ポーランド・リトアニア連合がディーケ・ポーレとの間に置いた警戒線組み込まれクリミア・タタール人浸入備え堡塁として整備された。1629年には、ウーマニ木製防御設備要する要塞となり、1064戸を数え城砦周囲には堀と土塁築かれた。城砦小都市は、ポーランド・リトアニア連合ブラスワフ県組み入れられた。 1648年にはウクライナ・コサックボフダン・フメリニツキー蜂起呼応したイヴァーン・ハンジャーの部隊により占領され、この町を根拠地とするウーマニ連隊置かれた。1648年から1667年まで、ウーマニ連隊都市および主要要塞としてヘーチマン国家領域属した1654年末から1655年初めにかけて、イヴァーン・ボフーン指揮されウーマニコサックはポーランド・シュラフタの軍隊侵攻退けた。しかし、1667年モスクワ公国ポーランド・リトアニア連合との間で締結されたアンドルーソヴォ講和条約により、ウーマニは再びポーランド領有されることとなった1670年から1674年にかけて、ウーマニには右岸ウクライナのヘーチマン・ムィハーイロ・ハネーンコが居住した。しかし、1674年には左岸ウクライナのヘーチマン・ペトロー・ドロシェーンコとオスマン帝国およびクリミア・ハン国連合軍侵攻により完全に破壊され余多住民殺害された。この出来事のあとウーマニ衰退し住民多く左岸ウクライナ移住した

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16-17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 15:24 UTC 版)

君主制廃止」の記事における「16-17世紀」の解説

イングランド王国オリバー・クロムウェルらによる清教徒革命王政廃止され共和政イングランド共和国1649年 - 1660年)が成立した1660年にはイングランド王政復古が行われたが、1688年名誉革命などを通じて王権の制限進められ立憲民主主義議院内閣制などの法の支配議会制民主主義形成された。

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16-17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/20 07:50 UTC 版)

北アメリカの探検」の記事における「16-17世紀」の解説

北アメリカ南西部現在の西部中央アメリカを含む)を探検し、その南部地域で(東から西へと)大陸横断するスペインの探検家コンキスタドール多数おり、主に16世紀半ばへ続く第2四半世紀にかけてはアルバル・ヌニェス・カベサ・デ・バカフランシスコ・バスケス・デ・コロナドなどの人物がいたが、やはり北アメリカ南東部および南中央地域の道であった1500年代半ばスペインフアン・ロドリゲス・カブリリョカリフォルニア太平洋岸に至ったことを主張する一方で200年後ガスパル・デ・ポルトラ探検隊による最初期陸上探索は、スペイン支配下バハ・カリフォルニア起点北方へとカトリック伝道所創設したカリフォルニア・ミッション参照)。 1608年サミュエル・ド・シャンプラン現在のケベック・シティー基礎築き、これは最初永住入植地となり、ヌーベルフランス首都となった。彼はその町および都市問題に関して個人的管理行い、かつ内陸部探索するために探検隊派遣したシャンプラン自身1609年シャンプレーン湖発見した1615年までに、彼はニピシング湖ジョージア湾通ってシムコー湖付近ヒューロン中心部までオタワ川カヌー遡る旅をした。これらの航海中、シャンプランイロコイ連邦抗争繰り広げていたウェンダット族(別名ヒューロン族)を援護したその結果イロコイ連邦からフランスは敵と見なされ、複数紛争巻き込まれることになった1679年から1682年まで、ルネ=ロベール・カヴリエ・シュ・ド・ラ・サールはアメリカ合衆国とカナダ五大湖地域、およびミシシッピ川全域メキシコ湾まで探検した1697年から1702年にかけて、エウセビオ・キノソノラ砂漠探検しコロラド川三角州への彼の旅行にて、一般的に島であると信じられていたバハ・カリフォルニアへの陸路発見した1683年キノは、ヨーロッパ人最初バハ・カリフォルニア陸路横断成し遂げたヨーロッパ人カナダ西部探検は、主に毛皮貿易および人目避けた北西航路探求によって動機づけられていた。 ハドソン湾会社探検家ヘンリー・ケルシーは、1690年グレートプレーンズ北部確認した最初のヨーロッパ人という栄誉得ている。

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16-17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/18 09:16 UTC 版)

神智学」の記事における「16-17世紀」の解説

ルネサンス期の間、神智学という用語から、ひとを神や媒介的諸霊の世界結びつけるものを識ることを通じて個の照明救済もたらす霊智的な知識を指す言葉としての用法生じた16世紀ドイツでは、「キリスト教神秘主義」と「秘教自然哲学」とを架橋するような神智学潮流興ったマイスター・エックハルトのようなドイツ神秘主義伝統パラケルスス1493年-1541年)の錬金術思想を結びつけたヴァレンティン・ヴァイゲル1533年1588年)がその代表である。 『永遠叡智円形劇場』(1595年)を著したパラケルスス主義者ハインリヒ・クンラート(英語版)(1560年-1605年)、『神聖な権威啓示』(1619年)という著作を遺したエギディウス・グートマン(ドイツ語版)(1490年-1584年)も16世紀末のドイツ神智学重要人物数えられるしかしながら神智学という言葉はまだ確立した意味にまで達していなかった。というのもヨハネス・アルボレウスによる16世紀中葉の Theosophia は、長々とした説明加えながらも秘教については何も触れなかったのである17世紀ドイツキリスト教神秘家ヤーコプ・ベーメ1575年-1624年)は、著作のなかで「神智学」という言葉を使うことはめったになかったが、かれの業績はその言葉が広まる大きな要因となった。それはベーメ著作いくつかの表題よるものであるが、それらの表題ベーメ自身というよりも編集者らによって選ばれたものと思しい17世紀神智家は比較少数であったが、かれらの多く多作であったドイツ以外では、オランダイングランドフランスにも神智家がいた。その代表的人物はヤン・バプティスト・ファン・ヘルモント(1618年1699年)、ロバート・フラッド英語版)(1574年1637年)、ジョン・ポーディジ(英語版)(1608年1681年)、ジェーン・リード(英語版)(1623年1704年)、ヘンリー・モア1614年1687年)、ピエール・ポワレ(フランス語版)(1646年1719年)、アントワネット・ブリニョン(フランス語版)(1616年1680年)である。 この時期神智家たちは、神秘の完全な理解向けて象徴的意味引出し知識追及推し進めるために能動的想像活用し特定の神話ないし啓示に基づく解釈によって自然を探るという方法を取ることが多かった

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16~17世紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/04 00:50 UTC 版)

ラーガルフリョゥトルムリン」の記事における「16~17世紀」の解説

1585年アブラハム・オルテリウスアイルランド地図上に描かれラーガルフリョゥトには「この湖には大蛇出現し住民を脅かす。現るときは、画期的な事件がおこる前触れである」と付記されている。メルカトルによる1595年地図簡潔にその大蛇触れている。 オッドゥル・エイナルスソン(アイスランド語版)主教の『アイスランド総誌(仮訳名)』(Qualiscunque descriptio Islandiae。1588–1589年頃)もラーガルフリョゥトの怪物触れており、おそらく大蛇指しているものとされるスカールホルト主教ギースリ・オッドソン(アイスランド語版)(1638年没)が著したアイスランド奇蹟について』(De mirabilibus Islandiae) の第6章にもラーガルフリョゥト川で目撃されるという大蛇についての言及がある。ノルウェー語借りればそれは「砂浜」(strandvorm)と呼称される怪物であると記されている。その体の「くねり」がいくつあったかについては、1、2、あるいは3つ意見分かれていたとされる。また川の氾濫引き起こしその時大地家屋大い揺れたという。

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