袈裟襷文銅鐸とは? わかりやすく解説

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袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 402
枝番 00
指定年月日 1984.06.06(昭和59.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文:  鋳銅。身の両側はやや内反りとなり、裾へわずかに広がる中形銅鐸扁平度の強いつくりである。
 身に比して幅広には鋸歯文を鋳出し小半円形飾耳二箇は一組として身の左右に三対つき、裾と各飾耳には数条から十数条の平行線がともなう。鐸身は裾の上方に二条の細線を表出し鋸歯文帯となるが、この裾横帯の幅は狭い。中央の袈裟襷文全体区画内を帯より一段低く仕上げ隆起した状態に表されている。横帯四段施し、両接して二帯、中央一帯縦に施した六区画の意匠通有である。帯内には細かい斜格子文飾り一面中央縦帯上部には一部鋳掛け痕があり、その表面には帯内の文様合わせて線刻格子文を施した補修痕がみられる
 鈕は延長外帯として二重の鋸歯文帯、わずかに突出した隆起部に綾杉文帯、細線文帯と続き鈕孔となるが、両面文様若干差異がある。身の内側は裾端近くにやや扁平な一条の突帯がめぐる。全体均一な薄手のつくりで文様細部の鋳上りもよく、ほとんど完全な状態を伝えている。
 本銅鐸主文様の袈裟襷文隆起させるべく区画内を一段低く仕上げ縦・横帯を強調した効果をあげた特異なものであることが注目に価する同種のものは数例みられるが、この銅鐸そのうちでもきわめて薄手のつくりで、当時鋳造技術一水準を示すと共に弥生時代文化をみるうえに貴重な資料である。

袈裟襷文銅鐸


袈裟襷文銅鐸


袈裟襷文銅鐸


袈裟襷文銅鐸


袈裟襷文銅鐸


袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 257
枝番 00
指定年月日 1963.02.14(昭和38.02.14)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: 弥生時代資料

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 405
枝番 00
指定年月日 1984.06.06(昭和59.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書 岡山県井原市木之子町出土
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文:  鋳銅。鐸身は筒形に近く反り少な中形の袈裟襷文銅鐸である。
 この銅鐸は、昭和二十年耕作中に発見されたもので、鈕が上方一方部を上に向け、約四五度ほど傾いた状態で出土した報告されているが、遺構など詳細明らかでないいわゆる扁平鈕式の中形銅鐸であるが、この銅鐸強く特徴づけているのは十二区画袈裟襷文であり、こうした割り付けの例はなく唯一ののである。また裾横帯には鋸歯文配すべき文様帯に代わって重孤文を飾るものも多くはない。定形式より変形され、より飾ることを意識した所産であると思われる通常横帯綾杉文や連続渦文を加え二重帯の銅鐸は、特につくりが丁寧であるが、これはその一典型であり、縦・横帯、鈕の綾杉文など全体施文繊細鮮明に上り区画内の研ぎ上げ精巧である。当時工芸技術のうちでも特に優れた面をみせているだけでなく、弥生時代文化を知るうえにも欠かせない貴重なものであり、その学術的価値にはきわめて高いものがある。
 岡山県総社平野西端部流れ高梁川は、その下流域西方から流入する小田川合流する遺跡は、この小田川の上流域で、支流稲木川との間に挾まれ丘陵近くの南斜面位置する

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 406
枝番 00
指定年月日 1984.06.06(昭和59.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: 弥生時代資料

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 427
枝番 01
指定年月日 1987.06.06(昭和62.06.06)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書 滋賀県野洲郡野洲町小篠原大岩山出土
員数 2口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: 大岩山は、琵琶湖東岸近江平野臨んで屹立する独立丘で、過去合計二十四口もの銅鐸が、山頂及び山腹各所から出土している。これらの銅鐸は、明治十四出土十四口と、昭和三十七年土取工事出土した十口に大別されるが、本件後者一括である。偶然の発見によるため、出土状態に関する正確な記録はないが、関係者等からの聴取によって、流水文銅鐸一口山頂付近単独に残り九口は大・中小型各々三箇体ずつが三組の入れ子状に、山腹土壙中に埋納されていたことが判明した
 十口の銅鐸は、流水文銅鐸一口除き、袈裟襷文銅鐸と突線袈裟襷文銅鐸それぞれが、共通した文様構成を持つが、細かくみれば六号銅鐸のように縦帯が裾部にまで伸びたものや、突線が比較的細い四号銅鐸などの特色あるもの含まれる。また総高四十七・五センチの三号銅鐸は、大形品の多い突線袈裟襷文銅鐸にあって、最も小形部類属する。
 本件含めた大岩山出土銅鐸は、「小篠原銅鐸」等と通称され、わが国弥生時代青銅器研究基礎資料となっている。特に一地域集中して様々な型式の箇体が出土する例は稀であり、学術的価値が高い。
 なお、本件別に明治十四出土銅鐸のうち、東京国立博物館所蔵二口今回あわせて重要文化財指定された他、辰馬考古資料館所蔵二口も、昨年度重要文化財指定受けている。

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 466
枝番 00
指定年月日 1991.06.21(平成3.06.21)
国宝重文区分 重要文化財
部門種別 考古資料
ト書 大阪府羽曳野市西浦出土
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: 本鐸は、昭和五十三年九月二十七日大阪府羽曳野市西浦小学校校舎改築現場から見つかり、直ちに市教育委員会調査した出土した西浦の地は、羽曳野市中央で、石川西岸位置し応神天皇陵中心とする古市古墳群の南にあたる。地形復元的にみると、ゆるやかな傾斜をなして東に下る丘陵の裾部に近い位置にあたる。
 銅鐸は、幅六五センチ深さ三五センチの穴に四五度の角度埋められていた。銅鐸周囲粘土質の土でしっかりと充填されていたために、土中空気その他の有機物質水溶液から遮断される状態にあった。そのため緑青発生はまった認められず、出土当初は、金色とまで表現されるほどの輝き保っていた。また傷や破損もなかった。
 銅鐸形状は、鈕【ちゆう】の形式による分類では突線鈕式【とつせんちゆうしき】で、鈕の外縁がいえん】と【ひれ】の外縁双頭渦文【そうとうかもん】の飾耳がつき、舞【まい】の上部に鈕脚壁がある。外面文様六区袈裟襷文区画内の文様はない。鈕の中央の綾杉文帯【あやすぎもんたい】に太い突線を入れ鋸歯文帯の斜線はすべて方向揃える。出土上面であったA面反対B面では、鈕の綾杉文帯付近の突線の数や鋸歯文斜線などわずかな相違があり、B面A面という製作手順の前後を示すようであるが、全体的に文様ほとんど同じである。型くずれ、すくわれ、巣などによる若干肌荒れがあるものの、鋳上がり良好文様鮮明である。
 内面には、下端から一〇センチところに凸帯がめぐるが、打撃痕跡はない。内面付着した真土【まね】の痕跡から、中型砂型であったことがわかる。成分分析結果では、主な金属は、八七・二九パーセント、鉛五・六パーセント、錫四・三パーセント割合である。同笵鐸は知られていない
 本鐸は、いわゆる近畿銅鐸特徴をすべて備え典型的なもので、銅鐸最終段階に近いものである良好な上がり鮮明な文様出土状況が明確であることなど、銅鐸研究資料として第一級品でありその学術的価値きわめて高いものがある。

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 34
枝番 02
指定年月日 1969.06.20(昭和44.06.20)
国宝重文区分 国宝
部門種別 考古資料
ト書 兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘出土
員数 8口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: これらの一括遺物昭和三十九年十二月神戸市灘区桜ケ岡町で土取り作業中に出土したのである同一地点から銅鐸数多く出土した例としては明治十八八月滋賀県野洲から発見され十四口が最も著名であり、さらに近年その付近から十口出土しているのが注目される。それに次ぐものは昭和七年徳島市での七口発見報告と、江戸時代淡路の笥飯野から八口出土したことが江戸時代の記録にあるが、それらはいずれ散逸したものが多く、また一か所に保存されていないので、本遺跡出土のものはその意味においてもきわめて貴重な新例加えたのである。しかも二口の袈裟襷文銅鐸に旧大橋家銅鐸国宝・伝香川県出土・現在国有)と同様の画象を鋳表わしていること、流水文銅鐸一口滋賀県新庄大原総一郎重文)、鳥取県泊(東京国立博物館保管)の二か所から出土したものおよび辰馬悦蔵所有のもの(二口、うち一口重文)と、一口岸和田市神於【このの】(京都大学保管)、一口鳥取県本庄京都国立博物館)から出土したものといわゆる同笵であること、しかも銅戈七口併せ出土していることなどは、この種青銅遺物性格を知る上にもきわめて重要である。

袈裟襷文銅鐸

主名称: 袈裟襷文銅鐸
指定番号 34
枝番 01
指定年月日 1969.06.20(昭和44.06.20)
国宝重文区分 国宝
部門種別 考古資料
ト書 両面在画象/兵庫県神戸市灘区桜ヶ丘出土
員数 2口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: これらの一括遺物昭和三十九年十二月神戸市灘区桜ケ岡町で土取り作業中に出土したのである同一地点から銅鐸数多く出土した例としては明治十八八月滋賀県野洲から発見され十四口が最も著名であり、さらに近年その付近から十口出土しているのが注目される。それに次ぐものは昭和七年徳島市での七口発見報告と、江戸時代淡路の笥飯野から八口出土したことが江戸時代の記録にあるが、それらはいずれ散逸したものが多く、また一か所に保存されていないので、本遺跡出土のものはその意味においてもきわめて貴重な新例加えたのである。しかも二口の袈裟襷文銅鐸に旧大橋家銅鐸国宝・伝香川県出土・現在国有)と同様の画象を鋳表わしていること、流水文銅鐸一口滋賀県新庄大原総一郎重文)、鳥取県泊(東京国立博物館保管)の二か所から出土したものおよび辰馬悦蔵所有のもの(二口、うち一口重文)と、一口岸和田市神於【このの】(京都大学保管)、一口鳥取県本庄京都国立博物館)から出土したものといわゆる同笵であること、しかも銅戈七口併せ出土していることなどは、この種青銅遺物性格を知る上にもきわめて重要である。

袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土/〉

主名称: 袈裟襷文銅鐸〈伝讃岐国出土/〉
指定番号 001
枝番 00
指定年月日 1942.06.26(昭和17.06.26)
国宝重文区分 国宝
部門種別 考古資料
ト書 両面在画象
員数 1口
時代区分 弥生
年代
検索年代
解説文: 弥生時代資料

袈裟襷文銅鐸

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考古資料:  袈裟襷文銅鐸  袈裟襷文銅鐸  袈裟襷文銅鐸  袈裟襷文銅鐸  豊前国京都郡石塚山古墳出土品  豊前求菩提山経塚出土品  象頭〓〓


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