第二代関白へとは? わかりやすく解説

第二代関白へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/29 17:23 UTC 版)

豊臣秀次」の記事における「第二代関白へ」の解説

8月6日長宗我部元親降伏して四国平定が成ると、その後評定によって大掛かりな国替え加増が行われた。結果、秀次の本人分としては20万石宿老中村一氏山内一豊堀尾吉晴)たちへの御年寄り衆分としては23万石与えられあわせて43万石大名とされた。領地東西交流の要となる近江国蒲生甲賀野洲坂田浅井の5郡で、秀次は蒲生郡現在の近江八幡市居城構えこととし安土見下ろして琵琶湖にも近い場所に、八幡山城築いた縄張築城工事都督作業工程まで具体的な指示書状示されているところをみると、諸将配置場所の選定なども含めてすべて秀吉指図であった思われる八幡山城後の事件で破却命じられたために現存しないが、日牟禮八幡宮の上宮を移築し山頂尾根三層天守閣築かれ山城は、所謂、.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.yomigana>rt{font-feature-settings:"ruby"0}詰の城つめのしろ)で、山麓居館との二つ分かれていた。城下町町人は主に安土から転居しており、計画的に造られ町並みは、八幡堀として現在もその姿を留めている。上下水道整備され地名に残る「背割」とはもともとは下水のために掘られた溝を指す。 秀次は、領内統治では善政布いたといわれ、近江八幡には「水争い裁き」の逸話など語り継がれている。これは宿老田中吉政功績大きいとも言われているが、まだ17歳であったことを考慮すれば、輔佐を受けつつも徐々に家来衆を使いこなし順調な統治進めたであろう悪政敷いた代官を自ら成敗したり、名代任せた実父三好吉房について「頼りない」と評価するなど主体性発揮した面が伝わっている。 また同年10月頃、秀次は従四位右近衛権少将叙任された。 天正14年1586年)の春頃、秀次はさらに右近衛権中将叙され11月25日豊臣本姓秀吉から下賜され同時に参議にも補任された。 天正15年1587年)、九州征伐では、前田利家輔佐として、秀吉名代京都留守居命じられて、秀次は出陣しなかった。11月22日従三位昇叙して権中納言に任ぜられた。 天正16年1588年4月14日聚楽第後陽成天皇行幸迎えた際、忠誠を誓う署判序列では、徳川家康大納言)、織田信雄内大臣)、豊臣秀長権大納言)、豊臣秀次宇喜多秀家前田利家の順で署名したが、この時までに秀次の家臣序列四番目に上がっていた。4月19日には従二位昇叙天正18年1590年)の小田原征伐には出陣し、秀長は病気であったために秀次が副将とされ、今度徳川家康指南を受けるように指示された。山中城攻撃では秀次が大将となって城を半日陥落させ、守将・松田康長の首を取ったが、一方でその戦闘家老一柳直末失っている。小田原城包囲では、秀次軍は荻窪口に陣取り7月5日北条氏降伏まで在陣した小田原城開城一段落した直後である7月18日、秀次はそのまま奥州平定出発して8月6日には白河到着9日には黒川至った伊達政宗から没収し蒲生氏郷与えられた三郡の内、会津郡検地監督を秀次は命じられていたが、秀吉京都帰還した後、葛西大崎一揆起こった当初、氏郷が一揆政宗扇動したのである秀吉報告したため、秀次と家康出陣命じられたが、後に誤報として処理されて、一旦取り消しとなった。しかし天正19年1591年2月には九戸政実の乱起きて鎮圧に手こずった南部信直より援軍要請受けた秀吉は、葛西大崎一揆裁定九戸征伐両方進めるために、改め諸将出陣号令した。伊達政宗蒲生氏郷佐竹義宣宇都宮国綱上杉景勝徳川家康、そして秀次の六番の隊が出征し総大将は秀次が務めたこのように秀次は奥州にいて不在であったが、小田原攻め論功行賞で、織田信雄東海道五カ国への移封拒否して改易されたので、信雄領であった尾張国伊勢国北部5郡などが秀次に与えられ旧領合わせて100万石の大大名とされた。これに伴って、秀次は居城清洲城移した年寄衆所領東海道転封された。 同じ天正19年1月22日に秀長が、8月5日には秀吉嫡男鶴松相次いで死去した通説ではこの年11月に秀次は秀吉養嗣子となったとされるが、養子となった時期についても、従来より諸説あって判然としておらず、それ以前養子とされていたという説もある。しかしこの頃秀吉関白職を辞して唐入り(征明遠征)に専心しようと思い立ち日本の統治を秀次に任せと言い出しており、後継者にすることが決まったことは、ほぼ確実のようである。関白職の世襲のために秀次の官位は、急遽引き上げられ11月28日には権大納言に任ぜられ、12月4日には内大臣に任ぜられた。 12月20日、『本願寺文書』および『南部晋氏所蔵文書』によると、秀吉は5ヶ条の訓戒状を秀次に出している。前4条は天下人としての一般的な心得述べたものだが、最後の条で「茶の湯鷹野女狂いに好き候事、秀吉まねあるまじき事、ただし、茶の湯慰みて候条、さいさい茶の湯をいたし、人を呼び候事はくるしからず候、又はとりたか、うつらたか、あいあいにしかるべく候、使い女の事は屋敷の内に置き、五人なりとも十人なりともくるしからず候、外にて猥れかましく女狂い鷹野茶の湯にて秀吉ごとくにいたらぬもののかた一切まかり出候儀、無用たるべき事」と個人的な行いについて特に“自分のように振る舞うな”と戒めて神明に誓わせた。 12月28日に、秀次は関白就任して同時に豊臣氏氏長者となった関白就任以後、秀次は政庁である聚楽第主な住居として政務を執ったが、諸事秀吉定めた御法度」「御置目」に従うようにされており、太閤秀吉依然として統括立場保持して二元政治ようになった天正20年1592年1月29日左大臣補任された。2月には2回目天皇行幸があり、秀次がこれを聚楽第迎えた。これは秀次へ権力世襲内外示したものと理解されている。 3月26日淀殿伴って名護屋城出征した秀吉唐入り専念する一方で、秀次とその家臣団による国内統治機構整備進んでいったようである。朝尾直弘は「いったん譲ってしまうと、関白中心とする国制機能独自に発動され太閤権力制御をこえる動きみせようとした」と説明するが、『駒井日記』の4月7日の条によると、前田利家前田利政佐竹義宣里見義康村井貞勝真田昌幸らの官位授与昇叙に対して秀吉は秀次の同意求めてその上で上奏するように指示しており、制度上の関白・秀次の地位が、独自の権力生む余地生んだとされる秀吉隠居地とされた伏見城指月城)の築城作業も、結局は次の管理下で行われた5月17日従一位叙せられた。8月大政所葬儀も、喪主秀吉であったが、葬儀取り仕切ったのは秀次であった12月8日元号文禄改元されるが、この時期天皇即位天変地異など特に改元すべきふさわしい理由はなく、これは秀次の関白世襲、つまり武家関白制統治権移譲関係した改元であった考えられている。

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