狙撃裁判とは? わかりやすく解説

狙撃裁判

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/07 05:09 UTC 版)

ベルリンの壁」の記事における「狙撃裁判」の解説

ベルリンの壁崩壊し東西ドイツの統一実現した後に、ベルリンの壁について、国境警備隊による越境者への狙撃及び射殺に対してどのように扱うかは喫緊の課題であった。壁崩壊翌年1990年には国境警備兵に対す裁判手続き進められていった東ドイツ狙撃兵東ドイツ国内法では訴追出来ないため、道義的概念持ち込めるのか、事後成立した法に基づく訴追遡及効禁止齟齬を及ぼすのか、法が正義反す場合実定法に対して正義道義優先されるのか、射殺命令執行した狙撃兵射殺命令出した上官との罪の上下は…などドイツ国内様々な議論なされたこの後ドイツ裁判所ベルリンの壁死者射殺命令に関する審理にほぼ15年費やした:227-230。 ドイツ連邦議会1992年に「ドイツにおけるドイツ社会主義統一党独裁歴史帰結批判的総括」を行うための調査委員会設置した。そして2年後社会主義統一党独裁のほぼ全局面を明らかにする15,000ページ余り調査報告書公表しこの中で東ドイツ行われた国家犯罪人権侵害など負の遺産についての真相究明責任や罪の承認浄化和解補償賠償、そして裁判など述べられていた。これらには独裁犠牲者悼み犯行者処罰することも含まれていた:227-229。 かつてナチス時代暴力犯罪に対して、法が正義反す場合実定法よりも正義道義性優先されるのか、といった論争があったが、狙撃兵裁判でもその論争再燃した:231。そして越境する者に対して射殺命令をいつ、誰が発したかも焦点となり、1961年夏のベルリンの壁建設9日後に社会主義統一党政治局発砲命令出したと言われるが:31、それが明確な文書としては残っておらず、当時ブラント西ベルリン市長東ドイツ国境警備兵に「自分と同じ国の人間を撃つな」と訴えた時にウルブリヒト第一書記は「国境侵す者には、武器用いてもその行動を慎むように命じなければならない」と語っていた:31-32。 その射殺命令およびその実に関して東ドイツの最高指導者政権幹部国境警備隊幹部現場兵士に対して1990年10月からドイツ再統一後のドイツ連邦共和国裁判所裁判が行われ、裁判所社会主義統一党中央委員会政治局から狙撃兵に至るまで途切れることなく責任連鎖存在することは確認した。そしてその際に、社会主義統一党指導部市民生命保護し身体無傷性を守る義務負っていたとして「民主共和国市民人格人権不可侵である」としたドイツ民主共和国憲法国際人協定をその字義どおり解釈した:233。 このドイツ民主共和国の不正を理由として始められ捜査手続き総数は壁の射殺事件以外も含めて10万件に達すると見られ、この総数に対して有罪判決はおよそ133分の1の数であったこの内に両独国境での強行犯罪について総計244件の訴追があり、466人が告発され385人に判決下され、110人が無罪で、275人の有罪確定した:234刑の量定連隊司令官国境警備隊長、政治局員まで地位順じて重くなった。しかし大半被告執行猶予付の判決で、命令権者20人は執行猶予付かない自由刑有罪判決であった。これらの不正行為見なしたものの捜査と裁判最終的な処理が終えたのは壁崩壊から16年過ぎた2005年であった:233ドイツ社会主義統一党幹部 ヴァルター・ウルブリヒト …壁建設時社会主義統一党第一書記(後に書記長)。1973年死去戦後東ドイツの最高指導者1971年引退ベルリンの壁構築の提唱者であり、実行者であり、そして最高責任者であった。壁建設後武器の使用躊躇わず射殺命令出したと言われている。[要出典]壁崩壊時は既に死去していたので、訴追はされなかった。 エーリッヒ・ホーネッカー…壁建設時の党書記1976年より1989年10月まで社会主義統一党書記長。壁建設陣頭指揮に当たり、壁を越境ようとするに対して射殺命令出したとされて、統一後49件の殺人罪によって起訴されたが、1993年刑事裁判免除され翌年逃亡先のチリ病死するヴィリー・シュトフ内務相国防相閣僚評議会議長首相)、国家評議会議長(元首)などを歴任1976年10月から1989年11月まで閣僚評議会議長首相)。1991年ベルリンの壁関連殺人罪逮捕されたが、翌年8月に健康上の理由釈放され最終的に審理停止となる。 エーリッヒ・ミールケ1957年から1989年11月まで国家保安相。1993年射殺命令責任者として起訴され別件警官殺害の件で懲役6年判決であったが、1995年釈放され2000年死去するハインツ・ケスラー空軍司令官参謀総長国防次官経て1985年から1989年まで国防相1993年懲役7年6ヵ月有罪判決を受け、1998年出所した2017年死去ギュンター・シャボフスキー…壁崩壊時の広報担当者社会主義統一党ベルリン地区委員会第一書記ベルリン支部長)。1997年8月ベルリンの壁での3人の殺害の件で懲役3年半の判決受けた。しかしシャボフスキー無実人間殺害されたことに対して責任認めたことが考慮され収監期間1年ほどで釈放された。その後保守主義転向し共産主義者であった過去に対して批判的になった。2015年死去エゴン・クレンツ…壁崩壊時の社会主義統一党書記長1999年懲役6年半の判決受けた党幹部として責任治安問題担当書記兼務していた)を問われたが、ベルリンの壁犠牲者には遺憾の意を表している。シュパンダウ刑務所1999年から2003年まで4年間の収監であり、昼間刑務所外で働くことができるという半自由刑扱いとなった。ただし、有罪判決出た後にヨーロッパ裁判所抗告しその際ベルリンの壁死者東ドイツ政府責任ではなく冷戦犠牲者であると主張した。 ギュンター・クライバー…壁崩壊時の社会主義統一党経済専門委員懲役3年有罪判決であったクラウス=ディーター・バウムガーテン…壁崩壊時の国境警備隊隊長懲役6年半の有罪判決であった国境警備隊兵士 壁で越境ようとした市民射殺した訴追され警備隊兵士からは、「的を外して撃った」との主張なされることもあったが、多く射殺命令実行した認定された。しかしその兵士に対して最終的には、執行猶予付き有罪判決場合がほとんどであった。「殺意なき殺人」として処理されている。また1997年エゴン・クレンツ裁判で、裁判官は「国境警備隊国境安全に責任負っていた。警備兵下された射殺命令実際にイデオロギー上のものであった」と裁定している。 1961年8月24日に壁付近で川を泳いで最初に銃の犠牲者となったギュンター・リトフィン事件では、彼を撃った兵士1997年裁判禁固18カ月有罪判決であった執行猶予がついた。「やや軽度重大事犯」にあたる故殺と見なされた:331962年8月17日に壁を越えようとして撃たれ東側落下してからしばらく虫の息だが生きていたもの東西両側から救助されず、1時間後にその場失血死したペーター・フェヒター事件では、1997年3月に元国境警備2人殺人罪訴追された。裁判長はどちらが彼を撃ったのか判断できないとして、裁判時には61歳であったロルフ・フリードリッヒに21カ月、エーリッヒ・シュライバーに20カ月それぞれ執行猶予のついた有罪判決であった。しかし裁判長はフェヒターの失血死について警備兵のどちらにも責任がないとしたが、起こった事実容認しがたいと明言したペーターの父は傷心精神病み1968年亡くなり、母も精神病み1991年まで生きたが壁崩壊についてはっきり理解することが出来なかった。姉ギーゼラは「弟はドイツからドイツへ行こうとしただけで撃たれた、そして誰も助けようとはしなかった。」と泣いた後日、ロルフ・フリードリッヒは「本当に申し訳ない。フィヒターに謝罪したい。」と語っていた。 1989年2月6日ベルリンの壁最後に射殺されクリス・ギュフロイ事件では、1991年9月国境警備兵4名が告発され法廷命令遵守訴えた人道に対する罪で、致命傷与えた銃弾放ったインゴ・ハインリッヒは3年半の懲役判決下りるものの、1994年減刑され2年保護観察となった同僚のアンドレアス・キューンパストは懲役2年執行猶予付いた当初東ドイツはこの壁で死者出た事実否定する方針であった世界中から非難され認めざる得なかった。クリスの母カーリン・ギュフロイはシュタージにいつか息子殺した罪に問われるだろうと言い放ったが、鼻でせせら笑われるけだったという。この裁判では結局発砲命じた側は罪に問われなかった。 なおこのギュフロイの死去に関して東ドイツ政府新聞家族からの死亡広告を出すことを許可し(壁の死者許可されケースそれまで無かった)、葬儀2月23日行われ120人が参列したそれまで葬儀どころか遺体家族引き渡すことも、あるいは壁で死んだことも連絡しないケース多く、壁が崩壊してから壁で射殺されたことを家族知ったことが多かった。また一緒に越境ようとして国境警備隊逮捕されたクリスティアン・ガウディアンは裁判懲役3年言い渡されたが、西ドイツ身代金支払い彼の身柄引き取った

※この「狙撃裁判」の解説は、「ベルリンの壁」の解説の一部です。
「狙撃裁判」を含む「ベルリンの壁」の記事については、「ベルリンの壁」の概要を参照ください。

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