狙撃銃として
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「ワルサーGew43半自動小銃」の記事における「狙撃銃として」の解説
開戦となった1939年のポーランド戦後、すでに前線指揮官からスコープ付き小銃を求める要望が挙がっていた。これに対して陸軍兵器局は、1938年頃から開発を進めてきた1.5倍率ライフルスコープをZF41としてKar98kと組み合わせ、1941年7月14日付けで制式化するが、この性能は本格的な狙撃銃を求める前線の期待に応えるものではなかった。そのため軍用狙撃銃としては、Kar98kに民間用スコープを装着したものに頼らざるを得なかったが、これにはスコープ自体の絶対数の不足とKar98kの改造・調整に手間が掛かること、多種多様なスコープの整備管理が困難であったこと等、様々な問題があった。このため陸軍兵器局は、4倍率で量産に適した軍制式ライフルスコープGwZF4(Gewehr Zielfernrohr 4-fach:4倍率小銃用照準眼鏡)を1942年頃に開発導入を行った。そして、Gew43に標準仕様でこのGwZF4用のレールを装備させ、狙撃銃となるポテンシャルをもたせることは、狙撃銃の大量生産を可能にするものとして慢性的な狙撃銃不足に悩んでいた軍にとって理想的な解決策として受け止められた。1943年8月にはヒトラー自身が、これまでの多様なスコープに換えてこのGwZF4をKar98kやFG42、そして新型のGew43に搭載する意向を表明し、翌月にはGew43、GwZF4いずれの量産体制も整っていないにも拘らずスコープ付きのGew43の増産を命令した。更に1944年4月にはスコープ付きGew43を指して「狙撃銃(Scharfschützengewehr)」と宣言するに至る。しかしながらその熱意が仇となり、無理な増産を強いられた銃もスコープも不十分な仕上がりとなり、狙撃銃に求められる精度を満たすのは困難となった。この結果、当時の資料によると狙撃銃として仕上げられたスコープ付きGew/Kar43の全数は1944年7月から1945年2月までで46,042丁とされており、全生産数の10%程度であった。つまり、ヒトラーの期待とは裏腹にほとんどのGew43は通常の歩兵銃として戦場に送られたのである。
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