牛村圭による批判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/30 09:56 UTC 版)
東京裁判研究者の牛村圭は、中島著がインド時代のパールの思想と活動を明らかにした点は評価に値するとする一方で、「論証の手法がかなり重大な問題を孕む」とし、田中正明を経由した史料には問題が多いとしながら田中が編集した史料を使用している点を、「少なくとも『平和の宣言』に編集採録した論考ではなく、新聞・雑誌初出の折の論考・記事にあたり、それを引くのが学問的良心の発揮ではないか」として、「著者の史料を扱う方針に一貫性が欠如している」と批判した。さらに、戦後日本の左派論壇を批判の対象としていない点、『パル判決書』についての公正な読みを提示しようとして来た先行研究にほとんど触れていないという点を「学問的誠実さに欠ける」とした。また、パールが憲法9条を支持していたという中島の説については、「何度読み返してみても、にわかには首肯できない」と批判した。また、中島と小林の論争に関しては、「長文の資料の中から、自己の主張に都合がいい部分のみを用いて引用しているという小林の指摘は説得力を持つ」と小林を支持し、中島著を評価した書評者に対しては、「こういう書評者は、この書を評するには適任ではない」と批判した。また、「小林の半年に及ぶ議論から学ぶことがあった。一人の研究者として謝意を表したく思う。」とし、問題は「パル判決」が「日本無罪論」か否かに収斂するとして、「如何なる訴因にも該当せず、とした「パル判決」は、従って「無罪論」だった、と考えるのが妥当だろう。判決はあくまで訴因の判定を介して下されるのである。小林よしのりが「無罪論」であって「無謬論」ではない、と説くのはこのことである」とした。ただし東京裁判は、日本を訴追したのではなく、旧敵(連合国)によって選抜された個人を裁いたのであり、「無罪論」に「日本」を冠する事に関しては、「七年にわたる占領期に、東京裁判も含め様々な形で、戦前戦中の日本は否定的に占領軍によって提示された」ことや、東京裁判が「個人を訴追しながらも日本の近代史解釈を勝者連合国が提示したという側面を持つ」事から、占領終了直後の田中正明と吉松正勝の著作が、共に「日本無罪」を冠した意味を認めながらも「この国際軍事法廷が訴追したのは日本ではなかったことが確認できる。パルが二十数名の被告の判定を通して日本という一国家の「無罪」の主張をも企図していたとしても、田中正明が書いたようにパル自身「日本無罪論」という書名を了解していたにしても、「無罪論」の前に日本を冠するのは、個人を裁いた東京裁判という史実と乖離し、議論が噛み合わなくなろう」と、そもそも東京裁判で「日本国」は裁かれていないという見解を表明した。そして当時の状況として、東條英機が英米法の手続きのため「無罪」を表明しただけで「罪状認否で「無罪」と答えた旧指導者たちはあらゆる戦争責任を回避し始めるに違いない、実に見苦しい、と、英米法の仕組みなど分からぬ当時の日本国民は予測したのだろう」(120頁)となったが、その後「勝者の訴因は肯じ得ないが自国民への敗戦責任をとる旨」を明言した事で、国民の眼差しが大きく変わったことを、「この戦時宰相は主張を改めたのではない。罪状認否で「無罪」と答えた時から一貫して、自国民に対しては敗戦を招いた責任を痛感する一方、勝者の法廷が糾弾する侵略戦争遂行等の刑事責任は肯じ得ない、という姿勢に変わりはなかった」(120-121頁)とすることで、当時の日本人の道義的感覚と、刑事裁判のズレを語り、改めてパル判決の「起訴状の全ての訴因について無罪」("Not Guilty of any of tye counts of the indictment")を確認し、なぜ「無罪論」と断じることに躊躇する気持ちが生じるのかを、日本語における「罪」が、道徳や法など多岐に渡るのに対し、英語で「罪」を意味する言葉は「crime(法律上の犯罪)」「guilt((違反に原義を持つ)有罪)」「sin(神の掟に背く)」など多彩である事などを挙げ、これらの文化の違いが、「無罪論」をめぐる論争、罪状認否で「無罪」と答えた「A級戦犯」への非難をも生んできたと考えて、おそらく良いのだろうとした。 これに小林は「このように公正に評価してくれることに対して、こちらからも謝意を表したい」 とし、牛村が「(占領解除直後の「日本無罪論」を容認した後)そして続けて記した―――『敗戦から六十年経つ現在、『パル判決』は『日本無罪論』である、という形でまとめて紹介するならば、肯定否定どちらの立場に立とうと、それは為にする浅薄な解釈であるのは論を俟たない』。だが、この見方を修正する必要があるように思い至っている」とした「知的誠実」に対し、「牛村氏のこの態度はメンツだけでデマを拡散させる権威主義者だらけの学者の中で、わしを甚く感激させる」とした。ただし、「日本無罪論」ではなく「無罪論」とした部分は「東京裁判研究の先達に言うのも釈迦に説法という気がするが、ポツダム宣言では確かに個人を対象にしていた」が、裁判はポツダム宣言を無視したチャーターにより開かれたもので、そこには歴然たる国家の行為を裁くことが記されていた点、「国家弁護派」であった清瀬一郎が「本件においては被告を含む日本国家が、検察官の指摘する十七か年の全期間にわたって国際法的の犯罪を続行していたということが、検察官の根本の主張であるのでありますと、「被告を含む日本国家」が裁かれているのだと発言している」とし、それに無罪を下した以上、「『日本無罪論』という言葉は決して史実に乖離するものではない」と語った。 これに対し牛村は、戦後日本において、全員有罪の「日本前科者史観」にパル判決が解毒剤となったこと、「対日戦犯裁判が一方的な「勝者の裁き」だったのは事実であり、憤慨を口にするのは人として自然な感情の発露」と、それに倫理的糾弾を加える意図は無いとした上で、研究者としての「客観性」の心構え、「パール判事」論争について「誠意を持って拙稿に目を通して下さった相手である。返答は礼儀でもあろう」として、「極東国際軍事裁判所という裁きは「極東における重大戦争犯罪人」という個人を訴追の対象とし(極東国際軍事裁判所憲章第一条)、「平和に対する罪を包含せる犯罪につき個人としてまたは団体員として訴追された極東戦争犯罪人」という個人の審理を目的とする裁きだった(極東国際軍事裁判所憲章第五条)とし、日本国家の行為を裁く意図はなく、あくまでも「「歴然たる国家の行為」を推し進めた個人を裁く」というのが、東京裁判憲章が提示する枠組みとした。そして条文は厳密に解すべき文章であり、「国家の行為」を裁くという解釈が入る余地は無いと加えた。ジョセフ・キーナンが冒頭陳述で「世界を通じて被告を含む極めて小数の人間が私刑を加へ自己の個人的意思を人類に押しつけんとしたのでした。彼らは文明に対し宣戦を布告しました」「国家自体は条約を破るものでなく又公然たる侵略戦争を行ふものでもないと云う事を再三再四強調する必要があります。責任は当に人間と云ふ機関に在る」など、日本国家ではなく「責任は個人にあり」という方針が再確認されたとする。「もちろんキーナンの主張には政治的意図が見え隠れする」と、日本本土への空襲という惨害をもたらしたのも被告たち、国民一般も犠牲者、自分たちが糾弾するのは、日本国でも国民一般でもなく被告たちだと主張し、国民が戦時指導者たちを指弾し、軍事法廷を支持するようにし向けたと語った。そしてパール自身も、この枠組みに基づいて「全員無罪」の判決を出したのが東京裁判という史実であるとする。そして、被告を通して「歴然たる国家の行為」を裁こうとしたから「パル判決」は日本無罪論と主張するのは、別の枠組みで論じる事であり、「同じ土俵で正反対の結論を導き出し主張したからこそ、「パル判決」は強烈なメッセージを発する」と語り、まず「厳密な意味での裁判の枠組み」が本筋で、「日本無罪論」という解釈の可能性の議論は副次的な議論であると言うのが、現在の自身(牛村)の見解であり、「この視角にたどり着いたのは、他ならぬ小林の展開してきた議論を追ってきたからに他ならない。反論を呈しつつも、史実を熟考し自らの東京裁判論を発展させる機会を与えられたことに対し、改めて感謝したい」とした。そして弁護方法の対立に関して、必ずしもブレークニが個人弁護、清瀬が国家弁護という解釈は当たらないとし、ブレークニが弁護した梅津美治郎や東郷茂徳も「国家弁護」より「個人弁護」に力を置いたとは言えず、「国家弁護と個人弁護」の対立は東京裁判の神話であり、明確に「国家弁護」の論陣を張った東條英機を除いて、弁護人の回想録に書いてあっても区別は判然としないとし、「個人弁護」派の重鎮と見なされた高柳賢三(鈴木貞一被告担当)が「侵略戦争とか自衛戦争とかいう区別いかんにかかわらず、国際法はそれを処罰することはできない、というのがわれわれの立場でした」と、日本の戦争が自衛か侵略か、という政治的意味に関わらず「全部を無罪と主張」しており、これは国家弁護そのものではないだろうかと主張。小林が、清瀬の冒頭陳述を引き「日本国家が裁かれている」という見解が存在したと指摘したことは、清瀬のそれはポツダム宣言の枠組みから逸脱しており、効果的な反論になり得ていないと、「占領下「勝者の裁き」に敢然と立ち上がった義を尊ぶその姿」に感銘こそすれ非難する気はないとしながらも指摘した。そして「パール真論」に紹介された"Japan Not Guilty"をパールが承諾したとした事実は、「私人としてのパル自身が、自分の意見書には「日本無罪論」として読める可能性もある、と認めたということだと私は考えている。」とし、法廷で自己の意見書を「日本無罪論」と言うことはありえず、パールは訴因に照らし合わせ、全被告無罪とすることで任務を全うした、とする。そして「パル判決=日本無罪論」とする論者に対し、それを是とするならば、パールが私人として語った昭和41年秋の「あの戦争裁判で、私は日本は道徳的には責任はあっても、法律的には責任はないという結論を下しました」も是としなければいけないとし、読みの可能性としての「パル判決=日本無罪論」を否定はしないが「日本無罪論とすべきだ」という主張に嫌疑を呈すると結んだ。 日暮吉延は、「最近もパルをめぐる『論争』があるようだが、この点、筆者のもっとも信頼する東京裁判研究者である牛村圭が『諸君!』2008年1月号でパル判決研究のあり方を泰然と正しく説いたので、それで決まりだと思っている」とこれを支持した。また、日暮は『パール判決書』を「日本無罪論」とする見方を批判するも、「多数判決を評価できないのと同様、パル判決-こちらのほうがずっとましだが-にも高い評価は与えられない。どちらも偏っているからである」と、パール判決への評価は低い。なお、前出の『NHKスペシャル』は、パールの無罪判定などの後に「しかし」という形で判決書内の「日本軍の残虐行為や、満州事変以降の歩み」に否定的と取れる箇所を強調する構成だった。
※この「牛村圭による批判」の解説は、「パール判決論争」の解説の一部です。
「牛村圭による批判」を含む「パール判決論争」の記事については、「パール判決論争」の概要を参照ください。
- 牛村圭による批判のページへのリンク