最終章――天人五衰とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 最終章――天人五衰の意味・解説 

最終章――天人五衰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 04:28 UTC 版)

三島由紀夫」の記事における「最終章――天人五衰」の解説

1970年昭和45年1月1日三島邸で開かれた新年会で、丸山明宏三島に霊が憑いていると言った三島何人かの名前を矢継ぎ早に挙げて訊くと、磯部浅一のところで「それだ!」と丸山答え三島青ざめたという。その昔1959年昭和34年7月三島邸で奥野健男澁澤龍彦らが来てコックリさんをしている最中にも、「二・二六の磯部の霊が邪魔している」と三島大真面目呟いていたとされる1月17日三島学習院時代先輩坊城俊民夫妻との会食の席で、50になった藤原定家書きたいという今後抱負語った2月には、未知男子高校生訪問があり、「先生はいつ死ぬんですか」と質問され、このエピソード元に独楽」を書いた3月頃、万が一交通事故死のためという話で、知人弁護士斎藤直一遺言状正式な作成方法訊ねていた三島は、同時期には、常にクーデター計画二の足を踏んでいた山本舜勝疎遠になり、4月頃から森田必勝先鋭メンバー具体的な最終決起計画練り始めた詳細三島事件#三島由紀夫自衛隊参照)。 3月頃、三島村松剛に、「蓮田善明は、おれに日本のあとをたのむといって出征したんだよ」と呟き、「『豊饒の海第四巻構想をすっかり変えなくてはならなくなってね」とも洩らしたという。刊行され小高根二郎の『蓮田善明とその死』を携えて山本舜勝宅を訪問した三島は、「私の今日は、この本によって決まりました」と献呈した。 第四巻取材のため、三島5月清水港駿河湾6月三保の松原赴いてタイトル決定し7月から「天人五衰」を連載開始した。6月下旬には、自分死後の財産分与や、『愛の渇き』と『仮面の告白』の著作権を母・倭文重に譲渡する内容遺言状作成し7月5日森田ら4名との決起11月楯の会定例会の日に定めた。 なおこの時期5月ドナルド・キーンコペンハーゲン1968年ノーベル文学賞選考秘話前段の節参照)を知り、こともあろうか三島が「左翼過激派」に間違えられたせいで賞を逸したなんてあまりにも馬鹿げていると驚いたため、その後そのこと三島に話さずにはいられなかった」が、キーンからその話を聞いている時の三島は「笑わなかった」という。 7月7日新聞では、「果たし得てゐない約束」と題して自身戦後25年間を振り返り、〈その空虚に今さらびつくりする。私はほとんど「生きた」とはいへない。鼻をつまみながら通りすぎたのだ〉と告白し、〈私はこれから日本大し希望をつなぐことができないこのまま行つたら「日本」はなくなつてしまうのではないかといふ感を日ましに深くする〉と戦後社会への決別宣言した。 同じ7月三島保利茂官房長官中曽根康弘防衛庁長官に『武士道軍国主義』『正規軍と不正規軍』という防衛に関する文書政府への「建白書」として託したが、中曽根阻止され閣僚会議佐藤栄作首相に提出され葬られた。川端宛てには、〈時間一滴々々が葡萄酒のやうに尊く感じられ空間的事物には、ほとんど何の興味なくなりました〉と綴った同年8月家族と共に伊豆下田市旅行し帰京後執筆取材のために新富町帝国興信所訪れた8月下旬頃にはすでに「天人五衰」の最終回部分26-30章)をほぼ書き上げ原稿コピー新潮社出版部長・新田敞預けた9月には評論革命哲学としての陽明学』を発表し同時期に対談集『尚武のこころ』と『源泉の感情』も出版した9月3日ヘンリー・スコット・ストークス宅の夕食会招かれ三島食事後、ヘンリーに暗い面持ちで「日本緑色呪いかかっている」という不思議な喩え話をした。 三島は再び暗い話を始めた日本はいろん呪いがあり、歴史上大き役割果たしてきたと言う近衛家は、九代わたって嗣子夭折した云云今夜様子が違う。延々とのろいの話。日本全体呪いかかっていると言い出す。日本人は金に目がくらんだ。精神的伝統滅び物質主義はびこり、醜い日本になったと言いかけて、奇妙な比喩持ち出した。「日本緑色呪いかかっている」 これを言う前に一瞬だが、躊躇したような気がした。さらにこう説明した。「日本の胸には、緑色喰いついている。この呪いから逃れる道はない」 ブランデー飲んでいたが、酔って言ったのではないことは確実だ。どう解釈すればいいのか。 — ヘンリー・スコット・ストークス三島由紀夫 死と真実」 この時期には、ドナルド・リチーや『潮騒』の翻訳者メレディス・ウェザビーとも頻繁に会いリチー楯の会のことをボーイスカウトだと揶揄すると、「数少ない彼らボーイスカウトと僕は、秩序を保つとなるんだ」と言い官僚主義屈した新政府戦い、敗けると判っていながら若き兵士たち行動を共にした西郷隆盛を「最後真の侍だ」と敬愛していたという。 10月には、「このごろはひとが家具を買いに行くというはなしをきいても、吐気がする」と村松剛告白し、それに対し村松が「家庭の幸福は文学の敵。それじゃあ太宰治と同じじゃないか」と指摘すると、三島は「そうだよ、おれは太宰治同じだ同じなんだよ」と言い小市民的幸福を嫌っていたとされるが、自分死後子供たち毎年クリスマスプレゼントが届くよう百貨店手配し子供雑誌長期購読料出版社先払いして毎月届けるように頼んでいた。伊藤勝彦によると、三島ある種芸術家みられるような、家庭顧みないような人間ではなかったという。 10月再演された『薔薇と海賊』の第2幕目の終わりで、三島舞台稽古初日とも泣いていた。その場面の主人公・帝一の台詞は、〈船の帆は、でも破けちやつた。帆柱はもう折れちやつたんだ〉、〈僕は一つだけ嘘をついてたんだよ。王国なんてなかったんだよ〉だった。 11月17日三島清水文雄宛てに、〈「豊饒の海」は終りつつありますが、「これが終つたら……」といふ言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせてゐます。小生にとつては、これが終ることが世界の終り他ならないからです。カンボジアバイヨン大寺院のことを、かつて「癩王のテラス」といふ芝居書きましたが、この小説こそ私にとつてのバイヨンでした〉と記している。 11月21日頃、いくら遅くて連絡してほしいという三島からの伝言受けていた藤井浩明深夜三島電話したイタリアで上映され好評の『憂国』などの話をし、最後に藤井がまた連休明け連絡する旨を伝えて切ろうとすると、いつもは快活に電話を切る三島が「さようなら」とぽつりと言ったことが、何となく気にかかったという。 11月22日深夜午前0時前に横尾忠則三島電話し横尾装幀担当した『新輯 薔薇刑』のイラストについて話題が及ぶと、その絵を三島は「俺の涅槃像だろう」と言って譲らなかったうえ、療養中横尾気遣って「足の病気は俺が治して歩けるようにしてやると言ったという。 11月24日決起への全準備整えた三島森田小賀正義古賀浩靖小川正洋は、午後6時頃から新橋料亭末げん」で鳥鍋料理注文し最後会食をした。当時末げん」の若女将になったばかりの丸武によれば、丸が挨拶をするためにふすまを開けた時、三島は目をつぶって考え事をしていたという。会食終えた帰り際では、玄関で「またお越しくださいませ」と丸が声をかけると、三島は「また来いと言われてもなぁ」と返した後、「こんな綺麗な女将さんがいるなら、あの世からでも来るか」と続けたという。午後8時頃に店を出て、小賀の運転する車で帰宅した三島は、午後10時頃に離れに住む両親就寝挨拶来て何気ない日常会話をして別れたが、肩を落として歩く後姿疲れた様子だったという。

※この「最終章――天人五衰」の解説は、「三島由紀夫」の解説の一部です。
「最終章――天人五衰」を含む「三島由紀夫」の記事については、「三島由紀夫」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「最終章――天人五衰」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  最終章――天人五衰のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「最終章――天人五衰」の関連用語

最終章――天人五衰のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



最終章――天人五衰のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの三島由紀夫 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS