日本人捕虜の状態
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 04:08 UTC 版)
運営は捕虜側による自治が認められており、「団長」(キャンプリーダー)を中心に補佐する数人が「事務所」(オフィス)に詰めて豪州側との連絡に当たり、事件直前にはその下に40名の班長がいた。その自治は最古参の豊島を中心に前田、永友、伊藤、柿本ら下記の海軍航空兵組が取り巻いていたが、比重が高まった陸軍より牢名主的であるとの批判が高まった。一方、彼ら陸軍下士官兵は飢餓や病気だったところを入院生活を経てカウラに来た者が多く、豊島ら海軍組から「ハングリー・ボーイ」と蔑まれていた。選挙の結果、数に勝る陸軍によって海軍航空兵組は失脚したが、英語に秀でる豊島は交渉役に欠かせず、三役の一人として留まった。捕虜は主に豪州兵への協力を拒み、労役拒否を貫こうとする強硬派と、それに反する穏健派に分かれていた。 以下、事件前後におけるBブロックの主要人物を挙げる。 豊島一 - Bブロック初代団長。捕虜番号110001。偽名は南忠男、中攻射手の兵曹長と名乗っていた。飛龍航空隊零戦隊第1小隊所属、一等飛行兵。香川県勝間村(現三豊市)出身、操練56期。2月19日、ポート・ダーウィン空襲で被弾しメルヴィル島のスネーク湾に不時着、23日捕虜。零戦搭乗員となる前は信号兵で、喇叭ラッパの心得がある。豪州で英語を習得し、団長を退いたのちも交渉役として地位を保っていた。なお捕虜になって間もない頃、脱走騒ぎを起こしている。強硬派であったとも、穏健派であったともいわれる。 高原希国 - 第1班所属。偽名は高田一郎、軍属で妙見丸船員と名乗っていた。東港空大艇隊所属一飛曹、97大艇偵察員。兵庫県姫路市出身、甲飛2期。2月15日、ティモール島増援に向かう米豪合同船団に触接中、米第3追撃機中隊所属のP-40(ロバート・J・ブエル中尉搭乗機)と相打ちで撃墜され、同乗者のうち生存した古川欣一二整曹(偽名:山下清)、沖本治義一飛曹(同:伊野治)、天本正好三整曹(天野)、平山一飛曹(平田一夫)の4名とともにメルヴィル島を漂流、3月3日に捕虜となった。中学校を卒業したため、豊島ほどではないがある程度英語の心得があり、事件後は豊島の代理で通訳を行う。戦後は投資家として活躍した。また、戦後も沈黙を守る元捕虜が少なくない中、積極的にインタビューに応じた。賛成票を投じたが、本心は反対であった。 前田芳光 - 捕虜番号110008。偽名はオキ・ヒデオ。第四航空隊所属、三飛曹。愛媛県出身、甲飛4期。4月28日、ポートモレスビー南東のロドニー岬付近で不時着、5月6日捕虜。事件後、1週間荒野を彷徨ったのち捕らえられた。 永友勝明 - 捕虜番号110015。偽名はナガトモ・カツロウ。第四航空隊所属、一等飛行兵。宮崎県出身。2月28日、ポートモレスビーで不時着。事件当日死亡。 伊藤務 - 初代副団長。捕虜番号110009。偽名は耶麻川鉄夫、爆撃機副操縦士を名乗っていた。海軍台南航空隊所属、二飛曹。愛媛県出身、甲飛4期。5月17日のポートモレスビー攻撃で第1中隊第2小隊(中隊長中島正少佐、小隊長山口馨准尉)2番機として出撃したが被弾し不時着、23日捕虜。豊島とは特に仲が良く、強硬派の筆頭であったと言われる。警備兵の制止を振り切って銃座に迫り、銃撃を2度受けるも生還。戦後、中野のアンケートでも明確に賛成を示した。 柿本円次 - 第7班長。捕虜番号110007。本名で通す。台南航空隊第3中隊第2小隊所属、二飛曹。大分県朝日村(現日田市山田町)出身、操47期。笹井醇一や坂井三郎の部下で羽藤一志の僚機であった事もある。ラビの戦いの8月27日にミルン湾で不時着し、同日捕虜。事件当日自殺。 小山田正実 - 捕虜番号110010。偽名は坂本トリミ、整備士の兵曹長を名乗っていた。第二航空隊所属一等飛行兵、九九式艦上爆撃機射手。ラビの戦いの8月27日に第3小隊(井上文刀大尉指揮、小隊長太田淳吾飛曹長)2番機として出撃、ミルン湾にて対空砲火を受け不時着し、9月2日に捕虜。森木によれば団長であった時期もあったという。経歴は不明点が多い。 金沢亮 - 2代目団長。偽名は金沢彰。独立工兵第51連隊所属、陸軍曹長。茨城県生瀬村(現大子町)出身。ビスマルク海海戦でトロブリアンド諸島に漂着後捕虜となる。団長となる事に余り乗り気でなく、後任が見つかるまでと言う条件で呑んだ。足を負傷していたため、突撃には参加しなかった。 小島正雄 - 2代目副団長。本名で通す。第50野戦高射砲大隊所属、陸軍曹長。名古屋出身。太平火災保険から応召。ビスマルク海海戦でトロブリアンド諸島に漂着後捕虜となる。聡明で原隊にいた頃より人望が厚く、カウラに着いて間もなく副団長に推される。一方、収容所からは何か事が起これば中心にいる人物だろうとマークされていた。攻撃には加わらず自殺。豪軍の尋問には協力的で、「日本軍幹部は捕虜になるよりは死を選べと指導しているが、この方針は誤っている」と述べているほか、死の直前、「バカなことをするもんだなぁ」と周囲に漏らしており、穏健派であったとする見方が多い。 堂市次郎 - 第11班長。本名で通す。海軍二等機関兵曹。1921年より7年間海軍で勤務のち日本飛行機株式会社課長であった1941年に応召。ブナにて戦車砲で右足を負傷、人事不省となっていたところを豪州兵の捕虜となる。足が不自由ながら事件後、五代目団長となる。戦後、豪州カウラ会初代会長。 森木勝 - 第7班所属。偽名は木下義則、二等兵を名乗っていた。森木は戦後婿養子になった後の姓で当時は森田。南海支隊歩兵第144連隊本部所属、陸軍軍曹。高知県伊野町(現いの町)出身。ギルワ・ブナ地区で突撃中に銃撃を受け人事不省となっていたところを捕虜となる。豊島の団長当時、事務所の陸軍代表であったが、海軍強硬派と対立し事務所を追われていた。戦後カウラに関する書籍を多く出版した。賛成票を投じたが、本心は反対であった。戦後、豪州カウラ会高地支部長を経て第二代会長。 下山義夫 - 捕虜番号147193。陸軍曹長。偽名か否かは不明。調書によれば広島県出身で、デパート店員から応召、中国から南方に転戦し3月ごろグロスター岬の戦いで退却中に友軍とはぐれ捕虜。カウラではほぼ新入りであったが班長になる。上の者には媚び下の者には威張る陰険な性格で、他の捕虜からは嫌われていた。調書では細心な性格としている。班長会議にて強硬意見を主張するが、事件後生き残ったことをほかの捕虜に責められ、ボイラー室にて自殺。 この他、将校キャンプの信任者は独立工兵第51連隊所属の西尾四郎軍医大尉(偽名は塚原スエキチ)であったが、事件当時は命令違反で拘束されており、強硬派の及川晃海軍少尉が代理になっていた。将校は捕虜となった事への屈辱が下士官兵以上に強かったためか、朝鮮人・台湾人捕虜への嫌がらせや脱走騒ぎを起こすなど、下士官兵以上に強硬的な態度をとることがあった。 収容所では、"傷病者の状態改善に関する赤十字条約(ジュネーブ条約)" を日本人にも適用(当時、日本政府はジュネーブ条約を批准していない)していたが、日本人捕虜はジュネーヴ条約の条文を理解しておらず、当時の日本軍・日本人社会の “生きて虜囚の辱めを受けず(戦陣訓)” という考え方と、欧米(同じ枢軸国であったイタリアを含む)やオーストラリアの“国を代表して全力で戦った、名誉ある捕虜” という認識の相違により、オーストラリア人と日本人捕虜の間ではコミュニケーションはあまりとられなかった(戦陣訓などからなる日本軍人に固有の意識や、外交・国際関係の知識の不足による誤解が背景にある)。 例えば、アフリカからのイタリア人捕虜が頻繁に家族に手紙を書いていたのに対し、日本海軍規範に述べられているように、日本軍・日本人社会は捕虜を不名誉としていたため、捕虜になった日本兵の内7、8割は偽名を用いて登録していた(本名が本国日本に照会されて、自分の家族などが非国民の扱いを受け、村八分的差別にあう可能性を避けるため。実際、捕虜第一号となった酒巻和男少尉の家は、非国民扱いされていた)。したがって、本国にいる自分の家族に手紙を書くことは行わなかった。カウラに移送される前のレッドホルムでの尋問中、新聞に写真を出された前田がショックで自殺を図っているほか、母国に健在を知らせる放送を持ち掛けられた永友が狂乱状態に陥ったなどの事があったため、豪軍も敢えて追及は避けていた。 また、前述の待遇面に対する捕虜の受け止め方について、高原は、厚遇を受ければ受けるほど、より精神的な呵責に攻め立てられる。また同時に生きる事の価値をも感じるようになっていった。しかしこうして捕虜となることは本来許されるものではなく、郷里へ帰ろうにも帰れず、かといって帰化する事も出来ない。こうしたジレンマに加え、戦局が日々悪化していく事実は現地の新聞から読み取れていた。豪州軍に処刑されないのなら、居場所を失った以上、いつかは自分達の手で手を付けなければならないと考えながらもその機会を得られずにいた、と語る。
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