日本人捕虜収容所
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/09 08:15 UTC 版)
各地の捕虜収容所では情報が少なかったこともあり、連合国軍が説明する「終戦」を信じない者も相当数存在した。1945年12月2日、インド政府は沢田廉三元ビルマ大使、磯田三郎元陸軍中将をデオリ収容所(アジュメール近郊)に派遣して説明にあたらせたが、沢田と磯田を偽物として疑う者が現れ収拾がつかなくなった。やがて収容所内で「勝ち組」と「負け組」に分かれた抗争が始まり、1946年2月25日には、騒乱状態になった「勝ち組」に対して警備兵による発砲が行われ17人が死亡した。
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