廣澤克實とは? わかりやすく解説

広澤 克実

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芸名広澤 克実
芸名フリガナひろさわ かつみ
性別男性
生年月日1962/4/10
星座おひつじ座
干支寅年
出身地茨城県
身長185 cm
体重99 kg
URLhttp://j-sm.jp/katsumi-hirosawa/
ブログURLhttp://ameblo.jp/hirosawa-katsumi/
プロフィール和製スラッガー代表格ロス五輪金メダル1984年ドラフト1位明大ヤクルトに入団1994年巨人に、2000年阪神移籍プロ野球史上巨人・阪神の両球団4番勤めた唯一の選手となる。引退後解説者として活躍野村長嶋星野タイプの違う指揮官の下での経験から独自のマネージメント論を持つ。
代表作品1ラジオ広澤克実とDr.イトーのレーザー交遊録!
代表作品2テレビコメンテーター亀ちゃんのタイガースに檄!
職種スポーツ
好きなスポーツ柔道/野球

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広澤克実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/04/22 08:13 UTC 版)

広澤 克実(広沢 克己)
基本情報
国籍 日本
出身地 茨城県結城市[1](茨城県下妻市生まれ)
生年月日 (1962-04-10) 1962年4月10日(63歳)
身長
体重
185 cm
99 kg
選手情報
投球・打席 右投右打
ポジション 一塁手外野手三塁手
プロ入り 1984年 ドラフト1位
初出場 1985年4月13日
最終出場 2003年10月27日(日本シリーズ第7戦)
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)
選手歴
コーチ歴
オリンピック
男子 野球
1984 野球

広澤 克実(ひろさわ かつみ、1962年4月10日 - )は、茨城県下妻市生まれ、同結城市出身[1]の元プロ野球選手内野手外野手、右投右打)、指導者、野球解説者登録名は、1995年までは「広沢 克己」、1996年から1998年までは「広沢克」、1999年以降は「広澤 克実」(全て読み同じ)。愛称は「トラ」など。

ヤクルトスワローズ時代は、池山隆寛との「イケトラコンビ」として、主砲として活躍した[2]読売ジャイアンツ阪神タイガースの両球団で4番打者を務めた唯一の選手でもある[3]ロサンゼルスオリンピック野球の金メダリスト。

経歴

プロ入りまで

学生時代は、野球だけでなく柔道も経験しており、中学時代には柔道部で北関東準優勝をしており[4]、有段者であるとのこと[5][6]。柔道の腕前は古田敦也によると、パウンド・フォー・パウンドなら小川直也にも勝つレベルであったかもしれないという。相撲にも造詣があり、ヤクルト時代はキャンプ中に若手と相撲を取って子供のように投げ飛ばしたという。広澤は野球以外も経験した上でプロ野球選手になったことから、幼少期には様々なスポーツをやるべきだ、将来複数のプロスポーツを掛け持ちする選手が日本にも出て来てほしいと主張している[7]。高校は小山高校に進学し1980年夏の栃木大会決勝に進出するが、黒磯高校に完封を喫し、甲子園出場を逸する[8]。高校3年時のドラフトにはかからなかったが、巨人とロッテからドラフト外での入団を打診されたことを明かしている[9]

卒業後は明治大学文学部に進学。同期に竹田光訓善波達也東京ガス - 明大監督)がいる。下級生時代は練習の辛さや人間関係から、何度も辞めようと思ったことがあるというが、先輩の平田勝男が悩んでいる広澤を部屋に呼び、蕎麦などをごちそうし、「食べたら街にでも遊びに行って来い、夜まで帰ってこなくていいぞ」と気を遣ってくれて、広澤は涙が止まらなかったという。大活躍へのスタートを切ったきっかけは、紺白戦(明大では紅白戦のことをこう呼ぶ)のメンバーに入れなかった広澤が、島岡吉郎監督の横で監督用の焚き火と焼き芋の番をしていたところ、島岡から「お前打ってみろ」といきなり代打に指名されたことであった。ここで快打を飛ばし、即ベンチ入りが決まった。

東京六大学リーグでは1983年春季リーグで2年ぶりの優勝に貢献し、同年は史上2人目の2シーズン連続首位打者を獲得した他、4試合連続本塁打のリーグ新記録を達成した。翌1984年にはロサンゼルスオリンピック野球日本代表チームの一員として出場した[注 1]。決勝戦で本塁打を打ち、金メダル獲得に貢献[10]。また、同年の秋季リーグでも在学中3度目の優勝を飾っている。

リーグ通算69試合に出場し248打数87安打、打率.351、18本塁打、47打点。ベストナイン3回。1983年、1984年には、日米大学野球選手権大会日本代表に選出されている。

ヤクルト時代

1984年ドラフト1位で日本ハムファイターズ西武ライオンズ、ヤクルトスワローズが競合し、抽選の結果ヤクルトに入団した[11][12]。契約金7,000万円[13]

ヤクルトでは大杉勝男の引退後、有望な選手が入団するまで保留欠番となっていた背番号8を与えられた[注 2]

ルーキーイヤーの1985年は、4月13日の中日戦でプロ初出場を果たし[14]、6月から一塁のレギュラーとなった。最終的には110試合に出場して打率.250、18本塁打、52打点と、ルーキーイヤーから中心打者として活躍した。

若手時代のヤクルトは弱小球団で、本人曰く「5月から消化試合(正式な消化試合ではない)」と表現するほどであり、アマチュア時代は小山高、明大とある程度強い学校に在籍していた広澤は「野球ってこんなに負けるんだな」とショックを受けた[15]

1986年土橋正幸監督は広澤を我慢して起用し[16]、シーズンを通して一塁のレギュラーを守り、打率.253、16本塁打、45打点と、出場機会を増やして規定打席に到達した[17]

1987年関根潤三が監督に就任し、一塁手にレオン・リーボブ・ホーナーが起用され、広澤は右翼手にコンバートされた。広澤は関根に「全試合に出ろ」と言われ、紅白戦を含めて休みなく、公式戦移動日も猛練習を課された[18]。打率.284、本塁打19本、打点60と結果を残した。

1988年の開幕時は6番右翼手だったが、8月以降は4番に据えられた。このシーズン以降、池山隆寛と共に「イケトラコンビ」、または「HI砲」(H=広沢、I=池山)と呼ばれ、ヤクルトの主軸を形成した。打率.288、30本塁打(キャリアハイ)、80打点と4番に相応しい成績を残し、自身初となるベストナインに選ばれた(外野手選出)。

1989年はシーズンを通してほぼ5番右翼手で起用されたが、打撃成績は打率.270、17本塁打、59打点と、前年より成績を落としている。池山、ラリー・パリッシュと共に三振を量産し、100三振トリオと呼ばれた。

1990年広沢好輝が入団したため、1994年まではスコアボード・新聞上の表記が「広沢克」に変更。後年、これが登録名となる。

1990年のシーズンから野村克也が監督に就任。5月からは不動の4番として出場し、以降ヤクルト時代はほぼ4番打者として起用された。中軸打者を務めた時期の間、打順が変わることはあったものの、連続試合出場を続けた(1986年10月12日から記録が始まり、最終的には1995年10月8日まで、1180試合連続出場の記録を作っている)。なお、野村の自宅を訪ねた時、広澤が打点王のタイトルを獲得した記念にプレゼントした空気清浄機が古くなっても使用されているのを見て、とても嬉しかったとのエピソードを後年にスポーツニッポンの引退記念コラムで語っている。

開幕は3番三塁手、5月から4番一塁手、6月末から4番右翼手でシーズンを通して起用された。5月30日時点で打率4割を記録するなど、首位打者を独走していたが、後半戦で失速。しかし、最終的には打率.317、25本塁打、72打点の成績を残し、2度目のベストナインに選出された。

1991年はシーズンを通して4番一塁手で起用され、打率.278、27本塁打、打点はキャリアハイの99打点を稼ぎ、自身初のタイトルとなる打点王を獲得している。外野手としては20試合にしか出場していないが、この年も外野手としてベストナインに選出された。

1992年は、打率.276、25本塁打、85打点を記録。入団からこの年までシーズン100三振以上を繰り返したが、打率は.250以上を維持している。この年、ヤクルトはリーグ優勝を果たし、初めて日本シリーズに出場した[19]西武ライオンズとの日本シリーズ第7戦では広澤の本塁スライディングが流れを変えたとされ、今なお様々な意見がある[20][21][22][19]

1993年は打率.288、25本塁打、94打点で、2度目の打点王を獲得。同年の日本シリーズでは前年と同じく西武と対戦し、第7戦初回に渡辺久信から3ランホームランを放って[23]、初の日本一を達成した。この年は一塁手としてベストナインに選出された。

1994年も打率.271、26本塁打、73打点と安定した成績を残したが、球団社長と待遇を巡って対立があり、オフの移籍に繋がった[24]

巨人時代

1994年オフにFA宣言し、同年12月5日に5年契約で読売ジャイアンツに移籍[25]。監督の野村は、この移籍には巨人の体質ゆえに反対しており、広澤が巨人を戦力外後に阪神に移籍した際には、広澤は野村が正しかったと認めたことを野村が後のインタビューで明かしている[26]

巨人初年度となる1995年は、落合博満が不動の4番一塁手だったため、広澤は5番左翼手で起用された[27]。20本塁打、72打点と長打力は健在だったが、打率は.240に落としている。広澤の打率が.250を下回ったのはプロ入り以降、初めてだった。開幕から極度の不振も、連続試合出場のため全試合に出場した。

1996年はオープン戦で西武の石井丈裕から死球を受けて骨折したため開幕に間に合わず、連続試合出場はストップした[28]。この年は、回復後も出場機会が少なく、スタメン復帰は7月以降で、同年の日本シリーズでもベンチ入りできなかった。シーズンオフに広澤自ら自由契約を申し入れたが、フロントに説得されて残留した[29]

1997年松井秀喜中堅手にコンバートされたことから、広澤は左翼から右翼手にコンバートされ、一塁にはFAで移籍してきた清原和博が起用された。9月26日の中日ドラゴンズ戦ではサイクル安打を達成。打率.280、22本塁打、67打点と、ヤクルト時代の安定した打撃が復活した。だが、翌年からレギュラーを失ったため、シーズン100試合出場はこの年が最後になった。

1998年、外野は左翼に清水隆行、中堅に松井、右翼に大型新人の高橋由伸が起用され、広澤は控えに回ることになった。出場機会が限られた中でも、打率.301、9本塁打、25打点と存在感を示した。

1999年、4月29日のヤクルト戦(大阪ドーム)で元同僚の川崎憲次郎から中前安打で出塁したが、二塁への盗塁を試みて右肩を脱臼。これがきっかけでシーズンを棒に振り、同年のスタメン出場は無かった。

広澤は後年、巨人での5年間を「マスコミの批判記事が気になり自分を見失っていた」と振り返っている[30]

阪神時代

1999年11月5日に巨人を自由契約となり、同年12月3日に阪神タイガースへ移籍することが発表される。2000年からは、かつての恩師である野村の下で再びプレーすることとなった。

野村は、当時阪神の主力選手だった大豊泰昭と揉めていたこともあり、前年の肩脱臼が完治していない影響で送球に支障があった広澤を4番、一塁手で起用したこともあった[31]。入団後初のお立ち台で「早く六甲おぼし…おろしを覚えますんで、よろしくお願いします」とコメントした。シーズン序盤は大豊と一塁のレギュラー争いを続けたが、広澤の調子が悪かったこともあって6月半ば以降は代打中心の起用になった。最終的には打率.217、5本塁打、16打点と、シーズン終了まで復調出来ずに終わった。

2001年、シーズン序盤は一塁手に主にイバン・クルーズが起用され、広澤は左投手先発試合で一塁手、右翼手として起用された。6月21日、阪神甲子園球場で行われた巨人戦で代打サヨナラ適時打を打った後、お立ち台で「次サヨナラ打ったら、ここで『六甲おろし』歌いますんで」と公約し、井川慶が完封勝利を挙げた8月29日の巨人戦で6回裏に高橋尚成から唯一の得点となるソロ本塁打を打ち、お立ち台で『六甲おろし』を歌ってその公約を達成した[32]。クルーズが負傷離脱した7月28日以降は一塁のレギュラーとして起用され、打率.284、12本塁打、46打点と安定した打撃が復活した。

2002年、大学の先輩でもある星野仙一監督が就任。一塁手はオリックス・ブルーウェーブから移籍してきたジョージ・アリアスがほぼレギュラーとして起用され、シーズンを通して代打中心の起用だったが、少ない出場機会で打率.288、1本塁打、11打点を記録した。

2003年もほぼ代打中心の起用だったが、チームが不振に陥った8月16日以降に先発出場している。阪神はこの年1985年以来のリーグ優勝を果たし、打率.306、4本塁打、15打点と優勝に貢献した。この年限りでの現役引退を決めていた広澤は、福岡ダイエーホークスとの日本シリーズで、5打席連続三振というシリーズタイ記録を作ったが、第7戦の9回表二死から矢野輝弘の代打で登場し、当時新人だった和田毅から左翼席へ本塁打を打ち[注 3]、日本シリーズ歴代最年長(当時41歳6か月)の本塁打を記録(日本シリーズでは1992年と1993年に1本ずつ記録しているので、自身通算3本目である。しかし試合に負けたことで、この打席が現役としての最終打席になった)[2]。日本シリーズ終了後、正式に現役引退を表明[33]

ヤクルト時代の1992年1993年、巨人時代の1996年、そして阪神時代の2003年と、巨人では日本シリーズに出場していないが、属した全3球団で優勝を経験した。現役19年間で退場処分を受けたことは一度もない。

日本シリーズの代打本塁打は、2022年時点では阪神の選手が日本シリーズで打った最後の本塁打となっていた[注 4]

引退後

引退後はNHKスポーツニッポンの野球解説者に就任した。関西では朝日放送虎バン』(毎月1回程度)と関西テレビ放送ぶったま!』(レギュラー)にもコメンテーターとして出演した。

2006年10月17日に阪神の一軍打撃コーチ就任が発表され、4年ぶりの現場復帰を果たした。2007年はチーム打率・得点・打点・安打・本塁打がリーグ最下位に低迷し、2008年は13ゲーム差をつけながら巨人に追い抜かれるという記録的なV逸の責任を取り、監督の岡田彰布、チーフ野手コーチの吉竹春樹と共に辞任した。

2009年からは再びスポーツニッポンの評論家を務めているが、前回と違い放送局との専属での契約は行わず、フリーの立場(主にサンテレビなど関西の放送局でのゲスト解説が多かったが、2012年からサンテレビ・仙台放送解説者となった)での本数契約で出演している。

2011年11月に野球カンボジア代表のコーチに就任した[34][35]

2014年に自身のブログで引退後にメニエール病を患っていることが明かされた。2015年に、その詳細を語っている[36][37]

所属事務所は株式会社ビッグベンを経て[38]2019年現在はジャパン・スポーツ・マーケティングがマネージメントを請け負っている[39]。2018年よりABEMA東京六大学野球中継」解説者を務める[40]

2018年3月、日本ポニーベースボール協会理事長に就任[41]

詳細情報

年度別打撃成績

















































O
P
S
1985 ヤクルト 110 368 336 36 84 11 1 18 151 52 1 0 1 1 26 2 4 102 9 .250 .311 .449 .760
1986 116 414 379 38 96 14 1 16 160 45 5 0 5 1 24 2 5 103 12 .253 .306 .422 .728
1987 130 512 461 61 131 21 3 19 215 60 9 2 1 4 41 1 5 105 16 .284 .346 .466 .813
1988 130 544 496 71 143 26 0 30 259 80 13 7 1 3 43 2 1 111 12 .288 .344 .522 .867
1989 130 529 470 63 127 16 0 17 194 59 11 5 1 2 49 1 7 125 11 .270 .347 .413 .759
1990 130 566 496 81 157 23 1 25 257 72 4 1 0 3 64 3 3 128 11 .317 .396 .518 .914
1991 132 550 492 71 137 24 2 27 246 99 8 3 0 2 53 5 3 129 11 .278 .351 .500 .851
1992 131 577 503 84 139 18 0 25 232 85 3 0 1 2 70 0 1 130 16 .276 .365 .461 .826
1993 132 584 524 87 151 22 0 25 248 94 7 1 0 5 55 2 0 96 17 .288 .353 .473 .826
1994 130 552 501 63 136 27 3 26 247 73 6 1 0 5 45 3 1 78 21 .271 .330 .493 .823
1995 巨人 131 512 446 55 107 18 3 20 191 72 6 1 0 4 58 1 4 88 14 .240 .330 .428 .758
1996 38 103 91 9 18 3 0 4 33 13 0 0 0 1 11 0 0 29 4 .198 .282 .363 .644
1997 126 477 428 56 120 13 1 22 201 67 2 1 1 2 43 2 3 115 19 .280 .349 .470 .818
1998 73 192 163 25 49 7 1 9 85 25 1 2 1 2 25 1 1 48 1 .301 .393 .521 .914
1999 16 16 14 2 2 0 0 1 5 1 0 1 0 0 2 0 0 6 1 .143 .250 .357 .607
2000 阪神 48 125 115 10 25 1 0 5 41 16 1 0 0 0 10 0 0 37 2 .217 .280 .357 .637
2001 95 296 268 21 76 7 2 12 123 46 1 0 1 3 23 0 1 66 8 .284 .339 .459 .798
2002 58 80 66 2 19 1 0 1 23 11 0 1 0 1 12 0 1 15 4 .288 .400 .348 .748
2003 37 68 62 8 19 3 0 4 34 15 0 0 0 0 6 0 0 18 3 .306 .368 .548 .916
通算:19年 1893 7065 6311 843 1736 255 18 306 2945 985 78 26 13 41 660 25 40 1529 192 .275 .345 .467 .812
  • 各年度の太字はリーグ最高

タイトル

表彰

記録

初記録
節目の記録
  • 100本塁打:1989年9月27日、対中日ドラゴンズ22回戦(明治神宮野球場)、7回裏に鹿島忠からソロ ※史上156人目
  • 150本塁打:1991年9月12日、対横浜大洋ホエールズ26回戦(明治神宮野球場)、1回裏に石井忠徳から左越3ラン ※史上93人目
  • 1000安打:1992年9月22日、対広島東洋カープ20回戦(明治神宮野球場)、4回裏に長冨浩志から ※史上168人目
  • 1000試合出場:1992年9月27日、対阪神タイガース23回戦(明治神宮野球場)、4番・一塁手で先発出場 ※史上308人目
  • 1000三振:1993年8月22日、対阪神タイガース18回戦(明治神宮野球場)、1回裏に中西清起から ※史上16人目
  • 200本塁打:1993年9月25日、対中日ドラゴンズ24回戦(明治神宮野球場)、10回裏に郭源治からサヨナラソロ ※史上64人目
  • 250本塁打:1996年7月17日、対中日ドラゴンズ12回戦(東京ドーム)、6回裏に平沼定晴から2ラン ※史上36人目
  • 1500試合出場:1997年6月28日、対中日ドラゴンズ13回戦(ナゴヤドーム)、5番・右翼手で先発出場 ※史上119人目
  • 1500安打:1997年8月10日、対中日ドラゴンズ21回戦(東京ドーム)、4回裏に山本昌から中前安打 ※史上72人目
  • 300本塁打:2001年9月12日、対ヤクルトスワローズ24回戦(阪神甲子園球場)、5回裏に入来智から左中間越2ラン ※史上26人目
  • 1500三振:2002年7月31日、対横浜ベイスターズ20回戦(阪神甲子園球場)、1回裏に吉見祐治から ※史上5人目
その他の記録

背番号

  • 8(1985年 - 1994年)
  • 80(1995年 - 1996年)
  • 10(1997年 - 1999年)
  • 31(2000年 - 2003年)
  • 85(2007年 - 2008年)

登録名

  • 広沢 克己(ひろさわ かつみ、1985年 - 1995年)
  • 広沢 克(ひろさわ かつみ、1996年 - 1998年)
  • 広澤 克実(ひろさわ かつみ、1999年 - 2003年)

登場曲

関連情報

出演

現在の出演番組
過去の出演番組

書籍

DVD

  • 広澤克実のフォーカスゾーン打撃理論」(2014年12月、ベースボールドットコム)

脚注

注釈

  1. ^ この時にアメリカ代表チームだったシェーン・マックとは、後に巨人でチームメイトとなっている。
  2. ^ 後年の文献では永久欠番と記述しているものが見受けられるが(ベースボール・マガジン社『週刊プロ野球データファイル』等)、引退表明を1面で大きく扱ったサンケイスポーツ(東京版・1983年11月10日付)では、「球団は「背番号8」を保留欠番とし、来春3月下旬に引退試合を行うことを決めた」とあり、明らかに誤りである。
  3. ^ その次の打者の沖原佳典が三振に倒れ、ダイエーに日本一を決められてしまった。
  4. ^ 2005年2014年にも阪神は日本シリーズに出場しているが、阪神の選手は1人も本塁打を放った選手がおらず、生え抜きに限定すると同じ第7戦の関本賢太郎である。2023年も第5戦までホームランが出ず、第6戦でシェルドン・ノイジーがホームランを放つまで日本シリーズ14試合連続ノーアーチのシリーズ記録を更新していた。
  5. ^ 本塁打・単打・三塁打・二塁打の順。この年は三塁打を1本しか打っていない。
  6. ^ 一部BS-TBSでも放送。

出典

  1. ^ a b 結城紬大使”. 結城市. 2015年4月21日閲覧。
  2. ^ a b 大学からプロへと神宮に見事なアーチを描き続け、 引退後もファンに愛される好漢スラッガー・広沢克己”. Baseball Crix. 2018年5月1日閲覧。
  3. ^ 広澤克実 プロフィール”. 週刊ベースボールONLINE. 2018年5月1日閲覧。
  4. ^ 中学時代は柔道部 巨人、阪神で四番打者務めた唯一の長距離砲とは | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2020年9月26日). 2023年10月4日閲覧。
  5. ^ 広澤克実(ひろさわかつみ)”. 講演会の講師依頼・紹介なら講演会なび. 2023年10月4日閲覧。
  6. ^ 出演者情報 | GAORAプロ野球中継(タイガース) | 野球”. GAORA. 2012年10月29日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月4日閲覧。
  7. ^ "アニキ"金本知憲も驚愕した 球界の飛ばし屋とは?【ザ・伝説の野球人大全集】 フルタの方程式【古田敦也 公式チャンネル】 2021/11/09(2021年8月30日閲覧)
  8. ^ 「全国高等学校野球選手権大会70年史」朝日新聞社編 1989年
  9. ^ https://www.youtube.com/watch?v=oWnHTYJ3-Ds
  10. ^ 広澤克実が語るロス五輪金メダルの真実「チームワークなんてなかった」”. 集英社 スポルティーバ 公式サイト web Sportiva (2020年1月26日). 2023年10月4日閲覧。
  11. ^ 過去のドラフト 第20回(1984年) - ドラフト会議”. 日刊スポーツ. 2023年10月4日閲覧。
  12. ^ 【11月19日】1984年(昭59) 竹田光訓は巨人?、広沢克己は西武?…希望通りにならなかった”. スポニチ Sponichi Annex (2018年11月17日). 2019年3月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2023年10月4日閲覧。
  13. ^ プロ野球選手が陥る税金の罠 広澤克実氏は契約金消えた”. NEWSポストセブン (2016年11月16日). 2023年10月4日閲覧。
  14. ^ 広澤克実が語る「忘れられない2試合」 | 野球コラム”. 週刊ベースボールONLINE (2016年5月16日). 2023年10月4日閲覧。
  15. ^ あいつはナメてた💢【赤鬼❗️ボブ・ホーナー】チームメイト・広澤が見た仰天行動❗️八重樫「耳の上の…」&池山「野球の話は…」ヤクルト独特交流エピソード【第4話】 ミスターパーフェクト槙原 2022/07/07 (2024年1月31日閲覧)
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  30. ^ 5年25億円契約「丸佳浩」に"2つの不安"、かつて巨人にFA移籍した広澤克実氏が指摘(2ページ目)”. デイリー新潮 (2018年12月24日). 2023年10月4日閲覧。
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  35. ^ “広澤克実氏がカンボジア代表コーチ就任「五輪で野球復活を」”. スポーツニッポン. (2011年11月29日). https://www.sponichi.co.jp/baseball/news/2011/11/29/kiji/K20111129002133040.html 2013年8月23日閲覧。 
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  37. ^ 爆報!THE フライデー 2015/01/16(金)19:00 の放送内容 ページ1”. TVでた蔵. 2023年10月4日閲覧。
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  40. ^ 野球選手のサングラスの効果は? 広澤克実氏、プロ選手に取材「打つ時だけしないと周りがまぶしい」”. AbemaTIMES (2019年5月27日). 2019年6月1日閲覧。
  41. ^ [中学硬式野球]広澤克実理事長に聞く ポニーリーグの機会均等の育成方針”. BBMスポーツ (2018年11月27日). 2021年9月3日閲覧。
  42. ^ 月刊タイガース 2000年5月号 45p

関連項目

外部リンク


広澤克実

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/25 23:40 UTC 版)

マツイ日記は知っている!」の記事における「広澤克実」の解説

松井との「男と男のぬくもりアーチ」を認めた人。彼が登録名変えたときに松井登録名変えた(しかし、松井自身が誰のことだかわからなくなってしまった)。

※この「広澤克実」の解説は、「マツイ日記は知っている!」の解説の一部です。
「広澤克実」を含む「マツイ日記は知っている!」の記事については、「マツイ日記は知っている!」の概要を参照ください。

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