増永祐一とは? わかりやすく解説

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増永祐一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/27 14:57 UTC 版)

増永 祐一
基本情報
国籍 日本
出身地 鹿児島県喜入町(現・鹿児島市
生年月日 1966年10月4日
身長
体重
180 cm
70 kg
選手情報
ポジション 投手
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度)

増永 祐一(ますなが ゆういち、1966年10月4日-[1])は、鹿児島県出身の日本の野球選手(投手)。

経歴

小学生時代は柔道水泳をしており、喜入中学校で野球を始めた。本格派として頭角を表し、県内の鹿児島商工鹿児島実業鹿児島商業からそれぞれ勧誘を受けて鹿児島商工に進学[2]。3年夏には鹿児島県大会決勝で鹿児島実業を1安打完封[3]全国大会に出場した。初戦となる2回戦で小川博文をノーヒットに抑えて拓大紅陵に完封勝利[4]。続く3回戦は志村亮との投げ合いを同じく完封で制し、桐蔭学園を下している。ベスト8では石田文樹吉田剛を擁する取手二高と対戦し、木内幸男による変化球対策もあって12安打を浴びて敗れた[5]

同大会の後は高校日本代表に選出されて韓国遠征に参加し、同年のドラフト会議ヤクルトから4位指名される。プロ志望だった事もあって入団に前向きだったが、喜入町に石油基地を持つ日本石油建内保興社長が同社野球部への獲得を熱望した。日本石油監督の望月博らの説得やヤクルトのスカウトに対する不信感もあり、3年後のプロ入りを条件に日本石油へ入社している[2]

同期入部には金沢健一らがおり、1年目から活躍。しかし2年目の1986年磯部史雄が監督に就任すると登板機会が激減し、打撃投手などを務めていた[2]1989年サイドスローへ転向すると、林裕幸が監督に就任した事もあり起用される事が増えた。プロからの指名はなかったが、第18回日本選手権第64回都市対抗での優勝を支え、1993年に現役を引退[2]。以降は社業に専念している。

脚注

  1. ^ 輝け甲子園の星、1984年No.4、127p
  2. ^ a b c d JX-ENEOS野球部 第23回 増永祐一
  3. ^ 朝日新聞、1984年7月25日付朝刊、P.19
  4. ^ 読売新聞、1984年8月14日付朝刊、P.12
  5. ^ 読売新聞、1984年8月20日付朝刊、P.16

関連項目




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