平安時代・鎌倉時代とは? わかりやすく解説

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平安時代・鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 13:47 UTC 版)

畠山氏」の記事における「平安時代・鎌倉時代」の解説

詳細は「畠山氏 (平姓)」および「岩松氏」を参照 坂東八平氏一族秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝従い一ノ谷の戦い奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政対立し元久2年1205年)に武蔵国二俣川北条義時の軍との戦闘敗死した(畠山重忠の乱)。 その後、重忠の旧領畠山名跡は、足利義兼庶長子足利義純が重忠の未亡人である北条時政女と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子義絶した上で継承であった。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏流れをくむ平姓畠山氏消滅し清和源氏のひとつ河内源氏一系足利家一門として存続することとなった。 義純の家系源姓畠山家)は名門畠山家名跡継承したことから、後に足利一門の中で別家扱い足利尾張家武衛家、いわゆる斯波家)に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣分家とは異な待遇足利宗家から受けることになる。 紀伊および河内越中守護おおむね務め分家能登守護を務めた

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平安時代・鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 19:34 UTC 版)

将吉川氏」の記事における「平安時代・鎌倉時代」の解説

桓武平氏坂東八平氏一門秩父平氏仕える。秩父平氏平将恒を祖とし、平将門の娘春姫血筋をひき、源平合戦では源氏方で功績挙げて元暦元年1184年)に惣領重頼の娘、京姫郷御前)は源義経正室迎えられている。

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平安時代・鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:29 UTC 版)

設楽氏」の記事における「平安時代・鎌倉時代」の解説

伴助高 三河半国総追捕使八名設楽郡領主。伴六介と号す。宇利富永の地を領し、「設楽別当」と号す。 設楽資兼 伴助兼伴助高の子。「設楽大夫」と号す。 設楽資時 設楽四郎三州設楽の祖。文治5年1189年源頼朝奥州において藤原泰衡討伐のとき、栗原合戦進み、面を切られ敵を打つ。よって勲賞に預かる。 設楽太郎兵衛入道 三河守足利氏被官として永仁年間1293年 - 1298年)頃の『足利氏所領奉行番文』に記されている(『倉持文書』『栃木県史料編』)。 設楽五郎左衛門尉 『太平記』第九六波羅攻事」に、元弘3年1333年斎藤玄基翁との馬上組討したことが記されている。

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平安時代 - 鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:25 UTC 版)

家紋」の記事における「平安時代 - 鎌倉時代」の解説

家紋起源古く平安時代後期にまで遡る奈良時代から調度器物には装飾目的として様々な文様描かれてきたが、平安時代になると次第調度品文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、貴族が各家固有の目印として使う特色帯びてきた。そして平安末期近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋起こりであるという説がある。 その後公家の間で流行し様々な家紋生み出されていく。例え上記西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様延長線としての色彩的な意味合い強く鎌倉時代にかけて徐々にその後帰属の証明家紋の意味合い役割に、発展変化していった。 武家家紋公家よりも遅れ、源平対立激化し始めた平安末期生まれる。戦場において自分働き証明、また名を残す自己顕示のため各自考えた固有の図象を旗幕、幔幕あしらったことが、その始まりであった考えられている。源氏白旗平氏赤旗戦場での敵味方区別付けやすくするための認識性のために掲げた。旗に家紋原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗描いている。このことから、武家家紋公家同じく平安後期生まれた考えられるが、それもわずか数えられるほどで、爆発的に普及し始めるのは鎌倉時代以後となる。鎌倉中期頃にはほとんどの武士家紋持ち家紋文化武家社会定着していたと考えられている。 本格的な合戦増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲上げ機会増えた。そのため必然的に敵味方区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕幟旗馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋入れられた。 公家社会においては武士のように名を上げるために家紋使用する要はなかった。そのため室町時代に入る頃には、ほとんど廃れてしまう。そもそも家を識別するために紋章使用するという発想武家のものであり、その存在自体厳格な家格序列固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がなかったのである。したがって公家家紋は「武家ならって創られた伝統」だという側面が強い。

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平安時代~鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 11:15 UTC 版)

東広島市」の記事における「平安時代~鎌倉時代」の解説

平安時代前期当地も本格的な律令支配が及び、その後現在の安芸郡府中町国府移ったとされる。当市域大部分安芸国賀茂郡豊田郡属したが、一部現在の豊栄町飯田豊栄町吉原)は備後国世羅郡属した以後賀茂郡豊田郡境界幾度か変更されているが、現在の市域は(備後国属した地区含めて)すべて賀茂郡属した期間を有する平安時代から鎌倉時代にかけては東西条は国衙領であったが、仁治3年1242年宣陽門院下文をもって東寺寄付され東寺経営となる。また、造賀、志和高屋などにも荘園形成され鎌倉幕府誕生承久の乱経て東国武士たちがこれらの荘園地頭任命された。高屋地頭となり土着して白山城居城とし造賀にまで勢力伸ばした平賀氏志和地頭となり土着した天野氏などが知られる東西条は守護領となったようで、地頭置かれなかった。

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平安時代、鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:34 UTC 版)

寒河江荘」の記事における「平安時代、鎌倉時代」の解説

藤原頼道から師実・師通・忠実と伝領され寒河江荘には、藤原氏権勢背景天皇勅願寺として慈恩寺再建なされた平安時代中心的な集落は落衣(寒河江市落衣)が知られ、落衣長者屋敷跡の周辺は落衣千軒呼ばれる繁栄見せたという。また、実相院巨海院、無量院などが長者屋敷中心として配置された。 保元の乱経て通に受け継がれ、基実から一時平盛子預かりとなり、盛子の死後後白河院預かりともなったが基通に受け継がれ鎌倉時代に入る。『近衛家所領目録』(近衛家文書)によると、寒河江荘は「請所」すなわち、在地領主請所として一定の得分年貢収納をもつ所領として記載されている。鎌倉時代請所文治5年1189年地頭補任された大江氏である。大江氏長岡山に観音及び八幡神勧請するとともに荘内に居館整備進め寒河江荘中心はやがて落衣から寒河江寒河江市丸内など)へと移っていく。 建久3年1192年地頭職惣領である大江親広相続され以後親広の子孫(寒河江氏)に相続されていくが、鎌倉時代には寒河江川北岸地域北条氏領となる(北寒河江荘)。北寒河江荘のうち五ヶ郷(吉田堀口三曹司・両所窪目)の地頭職北条時宗正室覚山尼によって鎌倉円覚寺寄進されたという。一方荘園主は基通以後、家実・兼経・基平と伝領された。 寒河江市慈恩寺寺伝によれば鳥羽上皇勅宣により天仁元年(1108年)および仁平年間1151年1153年)に再建されたとあり、また文治元年(1185年)後白河法皇院宣源頼朝下文により、瑞宝山山号を賜っている。これは、寒河江荘荘園主が藤原摂関家であった影響考えられる

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平安時代、鎌倉時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:35 UTC 版)

小田島荘」の記事における「平安時代、鎌倉時代」の解説

藤原師通から忠実、忠通、基実と伝領され荘園は、基通の頃に鎌倉時代へと入る。この時代地頭務めたのは中条氏であり、建長3年1251年小田島五郎左衛門尉義春は将軍家鶴岡八幡参随兵務めた。しかし、鎌倉末期には北条氏となっていたようである。

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