将官時代
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「ジェームズ・マティス」の記事における「将官時代」の解説
准将に進級したマティスは、2001年のアメリカ同時多発テロ事件に対する「不朽の自由作戦」において、第1海兵遠征旅団とアメリカ海軍隷下のタスクフォース58号を指揮する。同作戦でマティスは海兵隊員としては初めてアメリカ海軍のタスクフォースを指揮した人物となった。 少将に進級後、2003年に始まったイラク戦争において第1海兵師団を指揮する。同師団はアメリカ海兵隊から参加した第1海兵遠征軍の主力地上部隊であった。2004年4月のファルージャでの戦闘(ヴィジラント・リゾルヴ作戦)では、市内の暴徒たちの指導者との交渉で重要な役割を担う。またマティスは、11月の作戦(ファントム・フューリー作戦)の立案でも大きな役割を果たしている。 マティスは第1海兵師団のモットーである「味方にとっては最高の友であれ、敵にとっては最悪の相手であれ("No Better Friend, No Worse Enemy") 」(ルキウス・コルネリウス・スッラの言葉を基にしている)を、イラクに出征するに際して、師団長から麾下の全員に送った手紙に記した。このモットーは第1海兵師団の小隊長であり、戦争犯罪の嫌疑を受けたイラリオ・パンターノ少尉についての報道で何度も言及された。 マティスは第1海兵師団の将兵に「君たちがイラク市民に対して怒りや嫌悪を示すことが、即ちアルカーイダや他のならず者たちの勝利となってしまうことを忘れるな("whenever you show anger or disgust toward civilians, it's a victory for al-Qaeda and other insurgents")」と訓示し、イラク市民に被害を及ぼすことを戒めた。 中将に進級したマティスは、本国に帰還して海兵隊戦闘開発コマンドの指揮官となった。 2005年にサンディエゴで行われた討論会で「アフガニスタンへ行けば、ヴェールをつけないという理由で、女性を5年も殴り続けてきた奴らに出くわします。人間のクズとしか言いようがない。そんな奴らを撃ち殺すのは実に愉快です("You go into Afghanistan, you got guys who slap women around for five years because they didn't wear a veil. You know, guys like that ain't got no manhood left anyway. So it's a hell of a lot of fun to shoot them."」と発言した。当時の海兵隊総司令官であったマイケル・ヘギー海兵隊大将は、マティスの発言について「発言する時はもっと言葉を注意深く選ぶようマティス中将に注意した」と述べた。 2006年に第1海兵遠征軍司令官に就任した。翌年の2007年にはブッシュ大統領の指名・上院の可決により、マティスは大将に進級すると同時に統合戦力軍司令官に就任した。NATOの変革連合軍最高司令官を2009年まで兼任した。 2010年7月にマティスは国際治安支援部隊(ISAF)司令官兼アフガニスタン駐留アメリカ軍(USFOR-A)司令官に転出することになったデヴィッド・ペトレイアス陸軍大将の後任として、ロバート・ゲーツ国防長官の推薦により、オバマ大統領より中央軍(CENTCOM)司令官に指名された。正式な指名は7月21日付けで発令された。本人事は極めて緊急性が高い人事だったこともあり速やかにアメリカ合衆国上院軍事委員会による承認プロセスがとられ、8月5日に上院軍事委員会において承認に向けた公聴会が開催された。本人事は上院軍事委員会及びその後の上院本会議での採決でも無事に承認を得て、マティスはペトレイアスの後任として8月11日付で正式にアメリカ中央軍司令官に就任した。これにより2011年7月にアレン中将が大将昇任・補職に伴って退任するまでの1年近くにわたり、同じアメリカ軍の統合軍の正副司令官ポストを共にアメリカ海兵隊出身の将官が務めるという状況が生まれた。このように同じ統合軍の正副司令官ポストを共に海兵隊出身の将官が占めるということは、史上初めてのことであった。しかし、後にオバマ政権と対イラン政策をめぐって対立し、解任となる。イランとの核合意に反対し、イランをISIL以上の脅威と考えるマティスの姿勢が原因とされる。 2013年に中央軍司令官を退任し、同年に海兵隊を退役した。
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将官時代
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大正14年(1925年)に国連軍縮会議海軍代表に任じられ、交渉を通じてさらに対外協調路線の重要性を認識し、海軍大学校教頭に就任後は以前の教官時代以上に協調路線を熱く学生に説くようになった。 しかし一方で、軍令部の上官や陸軍に対しては、協調どころか反発することが多かった。昭和2年(1927年)に軍令部第1班長に就任し、百武の偏屈さが身を滅ぼす前兆を生み出すことになる。 前述のとおり、新任時代に加藤寛治の技量に感服したものの、再会した時には着弾観測員だった自分のことを忘れていたことに失望し、幕僚が同席した酒の席で加藤の薄情さを面罵したことがあった。このために軍令部第1班長(作戦部長)を2年務めながら軍令部次長の座を在任4ヶ月で追われ、軍令部総長就任の芽も奪われたとする見方がある。また陸軍に対しても、済南出兵に際して徹底介入を目指す荒木貞夫参謀本部第1部長に対して即時撤退を進言し、煙たがられている。満州事変の際に関東軍を視察訪問した百武に対し、本庄繁司令官が会見を拒否した原因と言われる。 昭和4年(1929年)に第5戦隊司令官として一時軍令部を離れるが、昭和6年(1931年)10月に統帥権干犯問題処理のために末次信正・軍令部次長が更迭され、さらに後任の永野修身が軍縮会議全権となったため、百武が次長に就任した。既に軍令部長は因縁深い加藤寛治から谷口尚真大将に交代していたが、谷口自身も百武に劣らず偏屈で知られており、軍令部内では不評であった。この間は満州事変に対応すべく、大陸の駐留部隊の増強と関東軍の動向を把握する必要性があったが、軍縮条約遵守を最大の懸案事項とする谷口・百武の下では事態が解決しないと軍令部員は考え、また加藤が海相・大角岑生に圧力をかけ両名とも翌年2月に更迭された。以後の百武は、昭和7年(1932年)2月海軍大学校長、10月練習艦隊司令官、昭和8年(1933年)9月舞鶴要港部司令官、昭和9年(1934年)11月第三艦隊司令長官、昭和10年(1935年)12月佐世保鎮守府司令長官、昭和11年(1936年)3月艦政本部長と、できるだけ海軍省・軍令部と関わらない職を転々とした。練習艦隊司令官としてアメリカを歴訪した際には親米派の提督として各地で大歓迎を受けた。一方で地方長官としては前例にとらわれず奔放に振舞い、幕僚を困惑させることも多かった。 昭和11年(1936年)12月より翌年4月まで横須賀鎮守府司令長官を務め、この間に大将に昇進して百武の現場生活は終わった。以後は昭和17年(1942年)7月まで軍事参議官として現役に留まった。参議官としても陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調に邁進した。永野修身・軍令部総長が体調を崩し、引退をほのめかした際に、百武が序列から見て総長に任じられる可能性が高いことが問題となった。後年百武自身が「軍令部総長や海軍大臣に就任することがあれば、開戦に反対であり思いきったことをやるつもりであった」と述べているように明白な避戦派である百武が総長となることを阻止する水面下の工作の結果、永野続投が強行され、さらには戦時下にも関わらず百武を予備役に編入し、海軍から追放することになった。大将の定年まで5年を残しての予備役編入であった。 戦後、新見政一元中将は、先の見える百武さんのような人が冷遇されたのは気の毒であったと述べている。
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