将官時代とは? わかりやすく解説

将官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 16:19 UTC 版)

ジェームズ・マティス」の記事における「将官時代」の解説

准将進級したマティスは、2001年アメリカ同時多発テロ事件対する「不朽の自由作戦」において、第1海兵遠征旅団アメリカ海軍隷下タスクフォース58号を指揮する同作戦でマティス海兵隊員としては初めアメリカ海軍タスクフォース指揮した人物となった少将進級後、2003年始まったイラク戦争において第1海兵師団指揮する。同師団アメリカ海兵隊から参加した第1海兵遠征軍主力地上部隊であった2004年4月ファルージャでの戦闘(ヴィジラント・リゾルヴ作戦)では、市内暴徒たちの指導者との交渉重要な役割を担う。またマティスは、11月作戦(ファントム・フューリー作戦)の立案でも大きな役割果たしている。 マティス第1海兵師団モットーである「味方にとっては最高の友であれ、敵にとっては最悪相手であれ("No Better Friend, No Worse Enemy") 」(ルキウス・コルネリウス・スッラ言葉を基にしている)を、イラク出征するに際して師団長から麾下全員送った手紙記した。このモットー第1海兵師団小隊長であり、戦争犯罪の嫌疑受けたイラリオ・パンターノ少尉についての報道何度も言及された。 マティス第1海兵師団将兵に「君たちイラク市民に対して怒り嫌悪を示すことが、即ちアルカーイダや他のならず者たち勝利となってしまうことを忘れるな("whenever you show anger or disgust toward civilians, it's a victory for al-Qaeda and other insurgents")」と訓示し、イラク市民被害を及ぼすことを戒めた中将進級したマティスは、本国帰還し海兵隊戦闘開発コマンド指揮官となった2005年サンディエゴ行われた討論会で「アフガニスタンへ行けばヴェールつけないという理由で、女性5年殴り続けてきた奴らに出くわします人間クズとしか言いようがない。そんな奴ら撃ち殺すのは実に愉快です("You go into Afghanistan, you got guys who slap women around for five years because they didn't wear a veil. You know, guys like that ain't got no manhood left anyway. So it's a hell of a lot of fun to shoot them."」と発言した当時海兵隊総司令官であったマイケル・ヘギー海兵隊大将は、マティス発言について「発言する時はもっと言葉注意深く選ぶようマティス中将注意した」と述べた2006年第1海兵遠征軍司令官に就任した。翌年2007年にはブッシュ大統領指名上院可決により、マティス大将進級する同時に統合戦力軍司令官就任したNATO変革連合軍最高司令官2009年まで兼任した2010年7月マティス国際治安支援部隊ISAF司令官アフガニスタン駐留アメリカ軍(USFOR-A)司令官転出することになったデヴィッド・ペトレイアス陸軍大将後任として、ロバート・ゲーツ国防長官推薦により、オバマ大統領より中央軍CENTCOM司令官指名された。正式な指名7月21日付け発令された。本人事は極めて急性が高い人事だったこともあり速やかにアメリカ合衆国上院軍事委員会による承認プロセスがとられ、8月5日上院軍事委員会において承認向けた公聴会開催された。本人事は上院軍事委員会及びその後の上院本会議での採決でも無事に承認得てマティスはペトレイアスの後任として8月11日付で正式にアメリカ中央軍司令官就任した。これにより2011年7月アレン中将大将昇任補職伴って退任するまでの1年近くにわたり、同じアメリカ軍統合軍正副司令官ポストを共にアメリカ海兵隊出身将官務めるという状況生まれたこのように同じ統合軍正副司令官ポストを共に海兵隊出身将官占めということは史上初めてのことであった。しかし、後にオバマ政権と対イラン政策めぐって対立し解任となる。イランとの合意反対し、イランISIL上の脅威考えマティス姿勢原因とされる2013年中央軍司令官退任し同年海兵隊退役した

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将官時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 15:58 UTC 版)

百武源吾」の記事における「将官時代」の解説

大正14年1925年)に国連軍縮会議海軍代表に任じられ交渉通じてさらに対外協調路線重要性認識し海軍大学校教頭就任後以前教官時代以上に協調路線熱く学生説くようになった。 しかし一方で軍令部の上官や陸軍に対しては、協調どころか反発することが多かった昭和2年1927年)に軍令部1班長に就任し百武偏屈さ身を滅ぼす前兆生み出すことになる。 前述のとおり、新任時代加藤寛治技量感服したものの、再会した時には着弾観測員だった自分のこと忘れていたことに失望し幕僚同席した酒の席で加藤薄情さを面罵したことがあった。このため軍令部1班長(作戦部長)を2年務めながら軍令部次長の座を在任4ヶ月追われ軍令部総長就任奪われたとする見方がある。また陸軍に対しても、済南出兵に際して徹底介入目指す荒木貞夫参謀本部第1部に対して即時撤退進言し、煙たがられている。満州事変の際に関東軍視察訪問した百武対し本庄繁司令官会見拒否した原因と言われる昭和4年1929年)に第5戦隊司令官として一時軍令部離れるが、昭和6年1931年10月統帥権干犯問題処理のために末次信正軍令部次長更迭され、さらに後任永野修身軍縮会議全権となったため、百武次長就任した。既に軍令部長因縁深い加藤寛治から谷口尚真大将交代していたが、谷口自身百武劣らず偏屈知られており、軍令部内では不評であったこの間満州事変に対応すべく、大陸駐留部隊増強関東軍動向把握する必要性があったが、軍縮条約遵守最大懸案事項とする谷口百武の下では事態解決しない軍令部員は考え、また加藤海相大角岑生圧力をかけ両名とも翌年2月更迭された。以後百武は、昭和7年1932年2月海軍大学校長、10月練習艦隊司令官昭和8年1933年9月舞鶴要港部司令官昭和9年1934年11月第三艦隊司令長官昭和10年1935年12月佐世保鎮守府司令長官昭和11年1936年3月艦政本部長と、できるだけ海軍省・軍令部と関わらない職を転々とした。練習艦隊司令官としてアメリカ歴訪した際には親米派提督として各地大歓迎受けた一方で地方長官としては前例とらわれず奔放に振舞い幕僚困惑させることも多かった昭和11年1936年12月より翌年4月まで横須賀鎮守府司令長官務めこの間大将昇進して百武現場生活は終わった以後昭和17年1942年7月まで軍事参議官として現役に留まった。参議官としても陸海軍参議官の中で開戦にただ一人反対し、最後まで対米協調邁進した。永野修身軍令部総長体調崩し引退ほのめかした際に、百武序列から見て総長任じられる可能性が高いことが問題となった後年百武自身が「軍令部総長海軍大臣就任することがあれば、開戦反対であり思いきったことをやるつもりであった」と述べているように明白な避戦派である百武総長となることを阻止する水面下工作結果永野続投強行され、さらには戦時下にも関わらず百武予備役編入し海軍から追放することになった大将定年まで5年残して予備役編入であった戦後新見政一元中将は、先の見え百武さんのような人が冷遇されたのは気の毒であった述べている。

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