イラク戦争において
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 07:38 UTC 版)
「ジョージ・J・テネット」の記事における「イラク戦争において」の解説
コリン・パウエル国務長官によるイラク戦争開戦前の国際連合安全保障理事会における演説の際に、それを裏付けるとする情報を逐一報告していたことが印象的である。しかし、大量破壊兵器の存在が確認されず、サッダーム・フセイン政権とアルカーイダの関係が不明瞭だったこともあり、彼は辞任することになった。辞任が大統領選の直前であったこと、そしてその理由が情報操作であったことは異例である。しかしジョージ・W・ブッシュ大統領は「ジョージ・テネットはアメリカのために素晴らしい仕事を行った。彼と共に働けたことは大きな名誉であり、私は彼の辞任が遺憾である。」と述べ、「彼は『個人的理由』のために辞職した。」と語った。後に自著『嵐の真ん中で』の中で、「ブッシュ政権内でイラク開戦前に同国の差し迫った脅威について真剣な協議は行われなかった」などと暴露、イラク開戦に関与した自らの立場を弁護する主張を展開し、保守・リベラル双方から非難を浴びている。(for personal reasons, ロイター、2004年6月5日) 大量破壊兵器の存在が確実であることをコリン・パウエルに報告、開戦への道筋を立てた。 2003年3月20日、テネットは、サダム・フセインがバグダート南方の「ドーラ農場」に隠れているとホワイトハウスに報告した。大統領は国防総省に対し、これを破壊することを命令、ミサイルと爆弾によって破壊された。ディック・チェイニー副大統領は「サダム・フセインをやっつけたと思う。フセインは瓦礫の中から掘り出されるのを目撃された。呼吸していなかった」と言った。しかしそれは誤報で、サダムはどこにも見つからなかった。 2003年4月7日、サダムとその息子たちが、バグダートのマンスール地区にある「サア・レストラン」の隣の家で会っていると報告した。空軍によって1t爆弾4発が投下された結果、罪のない市民18人が死亡した。 大量破壊兵器を隠匿した疑いがある場所946箇所のリストを公表した。後に大量破壊兵器は存在しなかったとパウエルが謝罪することになった。 サダムの息子ウダイが指揮する不正規軍の脅威を見過ごし、多数の兵を死傷させることになった。アメリカ陸軍の歴史記録「オンポイント」の著者は「情報機関は、この勢力がいかに残忍かつ強靭で、狂信的かをまったく予想していなかった」としている。 国連で兵器査察官を務めたデービット・ケイを団長とした「イラク調査グループ」を発足させ、大量破壊兵器捜索のためイラクに派遣したが、大量破壊兵器は発見できなかった。ケイは2004年1月28日上院軍事委員会に出席し「われわれはまったくと言っていいほど間違っていた」と証言した。。
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