イラク戦争〜死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 03:54 UTC 版)
「ウダイ・サッダーム・フセイン」の記事における「イラク戦争〜死」の解説
2003年、イラク戦争開戦に伴い、国営ラジオにてウダイの名で「神は侵略者から我々を守る」とアメリカ軍を中心とした多国籍軍に対して抵抗を呼びかける内容の声明が発表された。 しかし、ウダイは密かに父の政権の転覆を計っていたという。ジャーナリストのピーター・アーネットによるとウダイはサッダーム政権の独裁制や国連からの経済制裁を招いた父の外交手法に苛立ち、サッダームに苦言を呈していたという(もっともウダイも独裁制の下で自由奔放に動き、経済制裁で多額の利益を得ていた)。 開戦後の3月26日、ウダイの副官でフェダーイーン・サッダームの予算担当財務総括官だったマキ・ムスタファー・ハムダート将軍がウダイへ宛てた手紙で「閣下(ウダイ)を長として、閣下の指令と命令により新たに政権を確立する件について、我々フェダーイーン・サッダームの上官達全員に、新政権での閣僚へ加わるという閣下の希望を伝達済みであります。」とウダイ政権に忠誠を誓う内容となっている。 この3月26日にウダイは自ら経営するラジオ局「ボイス・オブ・イラク」放送を通じてクーデター開始を発表するはずだったが、米軍がラジオ局を空爆したため、計画は敢無く挫折したという。 ウダイは開戦前からオリンピック委員会を隠れ蓑に影の政府的なものを作っていたという。アーネットによればウダイこそ、体制内で政権交代を唱えた高位クラスの人物だとして、「遡ること10年前、ウダイはゆっくりと権力要素を組み立てていった。イラク軍将校と政治家達を集めて、専制的な父親を屈服させるつもりでいた」としている。 4月1日、イラク国営放送にてサッダーム、クサイと共に会合するウダイの姿が公表されたが、これがウダイの最後の映像となった。バグダード陥落直前、ウダイは一旦、サッダームと別れてクサイと共に米軍の追及を逃れ、イラク北部の拠点でサッダームと合流し、シリアに亡命しようとしたが、シリア側に入国を阻止されて失敗したという。5月にウダイが駐留米軍を通じて投降交渉を行っているとの報道がなされたが、その後、米軍によって否定された。逃亡中の動向については一切不明だが、サッダームとは別行動を取っていたと言われる。 2003年7月22日、米軍はある情報提供者から、イラク北部のモースルの邸宅に大物逃亡者が潜伏しているとの情報を得ると、24時間かけて綿密な計画を準備し、アメリカ陸軍第101空挺師団をその邸宅に向かわせ、家を包囲した。家宅捜査は一旦は、邸内にいた人物により拒否されるが、その一時間後に再び邸宅を包囲。邸内に強硬突入し、そしてガレージからウダイ所有と見られる高級車を発見、押収しようとした。その瞬間、室内から米兵に向けて激しい銃撃が起きた。劣勢に立たされた米軍部隊は一旦撤収し、その後、攻撃ヘリの支援を得て、邸宅を攻撃、約4時間に及ぶ戦闘を行った。 そして、突入した米兵によりウダイ、クサイ、クサイの息子ムスタファー、4人の護衛の遺体が確認された。「タイム」誌によると、米軍特殊部隊デルタフォースが突入した際、ウダイは重傷を負いながらもまだ存命しており、その場で同部隊の兵士によって口に2発の弾丸を撃ち込まれ、殺害されたと言われている。また、同誌によればウダイとクサイは、銃撃戦の最中にもパニックになりながら友人や支援者らに電話を掛けており、その会話を傍受していた米軍は電話先の居場所を割り出し、彼らを拘束したという。 7月24日、ドナルド・ラムズフェルド国防長官の決定により、米軍は死んだウダイ・クサイ兄弟の写真を公表した。 米軍司令部は、イラクでウダイ、クサイ兄弟がまだ生きているという噂を打ち消すために兄弟の遺体の写真を公開した。この公開について、「戦闘中に殺害された米兵捕虜の写真を公開したサッダーム・フセインをブッシュ政権が非難したこと」を考えると、アメリカは二重基準であると一部から批判があがった。米軍はこの批判に、ウダイ、クサイは戦闘員ではなく国際法上問題ないと答え、イラク国民にとって転換点になると述べた。 これにより、イラク国内で彼らの死に対し大変喜び、市民が驚喜し銃を発砲して、祝砲を上げた。だがこの流れ弾により31人が死亡し多数の負傷者が出た。 ちなみに、ウダイ・クサイが潜伏していると米軍に密告したのはナワーフ・アッ=ザイダーンという地元建設会社社長で、ウダイ・クサイ兄弟を自分の自宅に匿ったと言われている。サッダームの出身一族「アルブ・ナースィル」の出身で、旧政権時代にサッダームとの縁戚関係を誇示したため、サッダームの怒りを買い投獄された経験があるという。ザイダーンはその後、米軍から賞金を受け取ると、家族と共にアメリカに亡命したと報じられた。2004年にはザイダーンの親戚が報復と見られる銃撃事件で殺害された。 アメリカ側は、これで当時、イラクの治安悪化の元凶と見なされていたサッダーム旧政権残党勢力が力を落として弱体化すると楽観的な見通しを示したが、むしろこの後、駐留外国軍に対する攻撃は悪化、苛烈さを増した。 ウダイの遺体は弟クサイ、その息子ムスタファーと共に、ティクリートの墓地に埋葬された。2007年、サッダーム処刑後はティクリート近郊のアル=アウジャ村にあるサッダームも眠る墓地に埋葬し直された。
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