家族・親族・身元引受人
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父・伊藤忠吉(使丁) 明治元年(1869年)12月22日生 – 1936年(昭和11年)8月19日没 岩手県江刺郡岩谷堂字上堰14番地(現・奥州市江刺区岩谷堂)の大きな農家・伊藤家の長男として誕生。土地の風習で長子である姉・つねよ(慶応元年生まれ)が婿養子を迎えて伊藤家を継ぎ、忠吉は同村の菅原家の娘・すぎと結婚(婿入り)し二児を儲けるが離婚。 職を求めて1897年(明治30年)に故郷を離れ、北海道や仙台を経て福島県若松市(現・会津若松市)に渡り、大塚サイと知り合う。 サイとの間に、二女(初代、マキ)を儲ける。若松市川原町25番地の若松第4尋常小学校(現・城西小学校)の使丁(用務員)として夫婦で勤務。妻の死後は岩谷堂に戻り、1916年(大正5年)に岩谷堂尋常高等小学校増沢分教場(現・奥州市立岩谷堂小学校)の使丁となる。 母・サイ 1878年(明治11年)生 – 1915年(大正4年)3月10日没 福島県若松博労町字博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)の大塚源蔵の長女として誕生。 若松第4尋常小学校で臨時手伝いの用務員をしている時に伊藤忠吉と知り合い、二女(初代、マキ)を儲ける。肺炎のため、37歳で死去。 妹・マキ 1913年(大正2年)1月19日生 – 没年不詳 両親が住み込みで勤務していた若松第4尋常小学校の使丁室(用務員室)で誕生。 1931年(昭和6年)4月10日に白田熀治郎と結婚し、1932年(昭和7年)1月8日に長男・静也を儲ける。その後1940年(昭和15年)頃に次女・紀子を儲ける。紀子は結婚後に渡米。 祖父・大塚源蔵(雑貨商) 弘化2年(1845年)生 – 没年不詳 サイの父。二女(サイ、キヱ)を儲ける。福島県若松博労町字博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)で雑貨商を経営。大塚商店は、かつては鶴ヶ城に出入りする御用商人。 商売が振るわず、1915年(大正4年)10月13日に戸籍を東京府小石川区初音町9番地(現・文京区小石川)に移籍して一家で移住。その後1922年(大正11年)には北海道室蘭区(現・室蘭市)に転籍。 叔母・佐藤キヱ 生没年不詳 サイの妹。1889年(明治22年)に士族・角家の養子となり、1892年(明治25年)に士族・佐藤家の跡を相続。 姉・サイの死後に姪・初代を預かるが、子守奉公に出す。 夫・中林忠蔵(カフェ支配人) 1893年(明治26年)10月10日生 – 1927年(昭和2年)6月末没 青森県黒石町(現・黒石市)出身。中林家は、曽祖父に当る人物の代に醤油製造で成功し、黒石町でも有数の家であったが、その後に没落。 浅草のカフェ・アメリカの支配人をしている時、女給の初代と結ばれて長女・珠江を儲ける。関東大震災の後、宮城県仙台市に移住し、カルトンビルのカフェの支配人となる。 1924年(大正13年)に結核性の病となり、3年後に死去。 叔父・中林忠吉は関東大震災の後に、神奈川県横須賀市の海軍航空隊を除隊し、忠蔵と初代の所帯を訪問。忠吉は叔父でありながらも、忠蔵よりも5歳年下のため、忠蔵を「兄貴」と呼んだ。忠吉の姉(忠蔵の母)は、弟・忠吉と22歳の差があった。 従弟・中林良造(川柳誌『ねぶた』同人で、号は「瞭象」)は、酒類小売店を営み、菩提寺妙経寺にある中林家の墓地を管理。 長女・珠江 1923年(大正12年)11月生 – 不詳 中林忠蔵との間の長女。出生届は、東京府滝野川町(現・北区滝野川)で1924年(大正13年)3月30日生として出される。1932年(昭和7年)3月(当時8歳頃)に、川端の養女として出されそうになる。 再婚の夫・桜井五郎(車輛技師、塗装業) 1903年(明治36年)生 – 没年不詳 桜井家は、下総国古河藩主・土井家の家臣。文京区曙町に家があり、父・桜井省吾は警察署長を務めた。 蔵前工業高校を卒業後、汽車製造会社に勤務。1925年(大正14年)、地下鉄車輛研究のために渡米。1928年(昭和3年)3月に帰国。同年か翌年に初代と結ばれる。正式な婚姻届は1930年(昭和5年)8月28日。 1940年(昭和15年)に山口県下松市の日立車輛(日立製作所笠戸事業所)に就職し、一家で下松に転居。終戦後は、岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市水沢区)で塗装業を営む。 初代との間に、四男三女を儲けるが、内3人は夭折。 長男・和夫 1929年(昭和4年)生 – 1929年(昭和4年)没 桜井五郎との間の長男。生まれてすぐに肺炎で夭折。 次男・貴和男 1931年(昭和6年)11月23日– 1932年(昭和7年)4月10日没 桜井五郎との間の次男。消化不良のため夭折。 長女・美和子 1934年(昭和9年)12月2日生 – 1935年(昭和10年)没 桜井五郎との間の長女。 次女・匡子 1936年(昭和11年)5月19日生 – 桜井五郎との間の次女。 三男・靖郎 1938年(昭和13年)9月24日生 – 桜井五郎との間の三男。長男・次男が夭折したため実質的な長男。 江東区深川居住時の小学生時代に、夕刊売りや鉄屑拾いをする。成長後、松下電器の下請け工場・松栄製作所を開業し、一家を養う。 2014年(平成26年)に母・初代と川端のゆかりの地である岐阜県岐阜市を訪れた。 三女・三千代 1941年(昭和16年)9月生 – 桜井五郎との間の三女。山口県下松市で誕生。 四男・周二 1943年(昭和18年)2月生 – 桜井五郎との間の四男。山口県下松市で誕生。 身元引受人・山田ます(カフェ経営) 1887年(明治20年)2月2日生 – 1962年(昭和37年)没 父・山田亀吉と、母・さのが三女として岐阜県稲葉郡加納徳川町(現・岐阜市加納)で誕生。5人姉弟(てい、仁三郎、じょう、ます、角次郎)の4番目。父・亀吉は傘屋を営んでいた。 吉原の娼妓をしていたが、平出実(平出修の義理の甥)に身請けされて1911年(明治44年)5月17日に結婚。平出実は新潟県頸城郡高田町大字馬出1番地の出身で、17歳の時に実父・善吉(平出ライの兄)が死去し、叔母・ライの夫・平出修に引き取られていたが、1914年(大正3年)の平出修の死後の同年12月に、戸籍を新潟県高田市から本郷区本郷元町2丁目-61番地に移籍した。 その後、実とますは夫婦でカフェ・エランを開店するが、1年後に夫・実が店の女給・おしげ(本名・繁野)と駆け落ちしたため、ますは実と1919年(大正8年)12月26日に正式離婚。一旦閉店していたカフェ・エランは百瀬二郎の協力で再開する。 1920年(大正9年)7月10日頃、店の常連客らと潮干狩りに行った時に、東京帝国大学法科3年の福田澄男(彫刻家・石井鶴三の甥)と男女関係となる。同年、福田の台湾銀行就職に伴い、台湾に渡る。 ますはその後日本に帰国し、1927年(昭和2年)に岐阜県稲葉郡加納町大字東加納16番地に住む石榑万治郎と結婚した。万治郎との間には養子・昭二がいた。昭二は妻・和子と夫婦になり、1965年(昭和40年)に死去。 ますの甥・山田清一(仁三郎の長男)は1902年(明治35年)5月17日生まれで、川端らが岐阜を訪ねた1921年(大正10年)時点で19歳。初代が姉さまかぶりをしていたのと同じ模様の手ぬぐい地で仕立てた浴衣を、ますから貰い着たことがあるという。 養父・青木覚音(住職) 1872年(明治5年)生 – 没年不詳 岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納新本町1)の浄土宗西方寺の住職。六尺の大男。田舎碁の初段。托鉢に「かんかん」鉦を叩いてまわるところから、「かんかん坊主」という異名があった。寄進は茶碗一杯の白米の時も多く、初代がそれを入れる袋を持ち従っていたこともあったとされる。 1916年(大正5年)11月6日に妻・つうを亡くし、間もなく高橋ていと同居を始める。ていは高橋家の戸主のため、正式に入籍は出来なかったが、実質上の夫婦となる。 ていの妹・ますから預かった初代を強姦。 養母・高橋てい 1880年(明治13年)8月4日生 – 没年不詳 山田ますの姉。高橋藤次郎に嫁いだが、子供のないまま1916年(大正5年)1月23日に未亡人となる。その後、西方寺の住職・青木覚音と同居。
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