家族・親族・身元引受人とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 家族・親族・身元引受人の意味・解説 

家族・親族・身元引受人

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 09:36 UTC 版)

伊藤初代」の記事における「家族・親族・身元引受人」の解説

父・伊藤忠吉(使丁明治元年1869年12月22日生 – 1936年昭和11年8月19日岩手県江刺郡岩谷堂字上堰14番地(現・奥州市江刺区岩谷堂)の大きな農家伊藤家長男として誕生土地風習長子である姉・つねよ(慶応元年生まれ)が婿養子迎えて伊藤家継ぎ忠吉同村菅原家の娘・すぎと結婚婿入り)し二児儲けるが離婚。 職を求めて1897年明治30年)に故郷離れ北海道仙台経て福島県若松市(現・会津若松市)に渡り大塚サイ知り合うサイとの間に、二女初代マキ)を儲ける。若松市川原町25番地若松第4尋常小学校(現・城西小学校)の使丁用務員)として夫婦勤務。妻の死後岩谷堂に戻り1916年大正5年)に岩谷尋常高等小学校増沢分教場(現・奥州市立岩谷堂小学校)の使丁となる。 母・サイ 1878年明治11年)生 – 1915年大正4年3月10日福島県若松博労町博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)の大塚源蔵長女として誕生若松第4尋常小学校臨時手伝い用務員をしている時に伊藤忠吉と知り合い二女初代マキ)を儲ける。肺炎のため、37歳死去。 妹・マキ 1913年大正2年1月19日生 – 没年不詳 両親住み込み勤務していた若松第4尋常小学校使丁室(用務員室)で誕生1931年昭和6年4月10日白田熀治郎と結婚し1932年昭和7年1月8日長男・静也を儲ける。その後1940年昭和15年)頃に次女紀子儲ける。紀子結婚後に渡米祖父大塚源蔵雑貨商弘化2年1845年)生 – 没年不詳 サイの父。二女サイ、キヱ)を儲ける。福島県若松博労町博労町94番地(現・会津若松市上町博労町4-24)で雑貨商経営大塚商店は、かつては鶴ヶ城出入りする御用商人商売振るわず1915年大正4年10月13日戸籍東京府小石川区初音町9番地(現・文京区小石川)に移籍して一家移住その後1922年大正11年)には北海道室蘭区(現・室蘭市)に転籍叔母佐藤キヱ 生没年不詳 サイの妹。1889年明治22年)に士族・角家の養子となり、1892年明治25年)に士族佐藤家の跡を相続。 姉・サイ死後に姪・初代を預かるが、子守奉公に出す。 夫・中林忠蔵カフェ支配人1893年明治26年10月10日生 – 1927年昭和2年6月末没 青森県黒石町(現・黒石市出身中林家は、曽祖父当る人物の代に醤油製造成功し黒石町でも有数の家であったが、その後没落浅草のカフェ・アメリカの支配人をしている時、女給初代結ばれて長女珠江儲ける。関東大震災の後、宮城県仙台市移住し、カルトンビルのカフェ支配人となる。 1924年大正13年)に結核性の病となり、3年後死去叔父中林忠吉関東大震災の後に、神奈川県横須賀市海軍航空隊除隊し忠蔵初代所帯訪問忠吉叔父ありながらも、忠蔵よりも5歳年下のため、忠蔵を「兄貴」と呼んだ忠吉の姉(忠蔵の母)は、弟・忠吉22歳の差があった。 従弟中林良造(川柳誌『ねぶた』同人で、号は「瞭象」)は、酒類小売店営み菩提寺妙経寺にある中林家墓地管理長女珠江 1923年大正12年11月生 – 不詳 中林忠蔵との間の長女出生届は、東京府滝野川町(現・北区滝野川)で1924年大正13年3月30日生として出される1932年昭和7年3月当時8歳頃)に、川端養女として出されそうになる再婚の夫・桜井五郎車輛技師塗装業) 1903年明治36年)生 – 没年不詳 桜井家は、下総国古河藩主・土井家家臣文京区曙町に家があり、父・桜井省吾警察署長務めた蔵前工業高校卒業後、汽車製造会社勤務1925年大正14年)、地下鉄車輛研究のために渡米1928年昭和3年3月帰国同年翌年初代結ばれる正式な婚姻届1930年昭和5年8月28日1940年昭和15年)に山口県下松市日立車輛日立製作所笠戸事業所)に就職し一家下松転居終戦後は、岩手県胆沢郡水沢町(現・奥州市水沢区)で塗装業を営む。 初代との間に、四男三女儲けるが、内3人は夭折長男和夫 1929年昭和4年)生 – 1929年昭和4年)没 桜井五郎との間の長男生まれてすぐに肺炎夭折次男・貴和男 1931年昭和6年11月23日1932年昭和7年4月10日桜井五郎との間の次男消化不良のため夭折長女美和子 1934年昭和9年12月2日生 – 1935年昭和10年)没 桜井五郎との間の長女次女・匡子 1936年昭和11年5月19日生 – 桜井五郎との間の次女三男・靖郎 1938年昭和13年9月24日生 – 桜井五郎との間の三男長男次男夭折したため実質的な長男江東区深川居住時の小学生時代に、夕刊売り鉄屑拾いをする。成長後松下電器下請け工場松栄製作所開業し一家を養う。 2014年平成26年)に母・初代川端ゆかりの地である岐阜県岐阜市訪れた三女三千1941年昭和16年9月生 – 桜井五郎との間の三女山口県下松市誕生。 四男・周二 1943年昭和18年2月生 – 桜井五郎との間の四男。山口県下松市誕生身元引受人山田ます(カフェ経営1887年明治20年2月2日生 – 1962年昭和37年)没 父・山田亀吉と、母・さのが三女として岐阜県稲葉郡加納徳川町(現・岐阜市加納)で誕生。5人姉弟(てい、仁三郎、じょう、ます、角次郎)の4番目。父・亀吉傘屋営んでいた。 吉原娼妓をしていたが、平出実(平出修義理の甥)に身請けされ1911年明治44年5月17日結婚平出実は新潟県頸城郡高田町大字馬出1番地出身で、17歳時に実父善吉平出ライの兄)が死去し叔母ライの夫・平出修引き取られていたが、1914年大正3年)の平出修死後の同年12月に、戸籍新潟県高田市から本郷区本郷元2丁目-61番地移籍したその後、実とますは夫婦でカフェ・エランを開店するが、1年後に夫・実が店の女給・おしげ(本名繁野)と駆け落ちしたため、ますは実と1919年大正8年12月26日に正式離婚。一旦閉店していたカフェ・エランは百瀬二郎協力再開する1920年大正9年7月10日頃、店の常連客らと潮干狩り行った時に東京帝国大学法科3年福田澄男(彫刻家石井鶴三の甥)と男女関係となる。同年福田台湾銀行就職に伴い台湾に渡る。 ますはその後日本に帰国し、1927年昭和2年)に岐阜県稲葉郡加納町大字加納16番地に住む石榑万治郎と結婚した万治郎との間には養子・昭二がいた。昭二は妻・和子夫婦になり、1965年昭和40年)に死去。 ますの甥・山田清一仁三郎長男)は1902年明治35年5月17日生まれで、川端らが岐阜訪ねた1921年大正10年時点19歳初代姉さまかぶりをしていたのと同じ模様の手ぬぐい地で仕立てた浴衣を、ますから貰い着たことがあるという。 養父青木覚音(住職1872年明治5年)生 – 没年不詳 岐阜県稲葉郡加納町6番地(現・岐阜市加納新本町1)の浄土宗西方寺住職六尺大男田舎碁の初段托鉢に「かんかん」鉦を叩いてまわるところから、「かんかん坊主」という異名があった。寄進茶碗一杯白米の時も多く初代がそれを入れる袋を持ち従っていたこともあったとされる1916年大正5年11月6日に妻・つうを亡くし間もなく高橋ていと同居始める。ていは高橋家戸主のため、正式に入籍出来なかったが、実質上の夫婦となる。 ていの妹・ますから預かった初代強姦養母高橋てい 1880年明治13年8月4日生 – 没年不詳 山田ますの姉。高橋藤次郎嫁いだが、子供のないまま1916年大正5年1月23日未亡人となる。その後西方寺住職青木覚音と同居

※この「家族・親族・身元引受人」の解説は、「伊藤初代」の解説の一部です。
「家族・親族・身元引受人」を含む「伊藤初代」の記事については、「伊藤初代」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「家族・親族・身元引受人」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「家族・親族・身元引受人」の関連用語

家族・親族・身元引受人のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



家族・親族・身元引受人のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの伊藤初代 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS