家族・親族:平家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/06 17:21 UTC 版)
広島県広島市中区小網町、東京都世田谷区 広島市内の「小網町」あたりは当時、興行街で、映画館や芝居小屋がたくさんあって、大きな寿座という小屋には旅興行の歌舞伎や新派が来ていたその街にある三光寺という寺の門前の両側、20軒ずつぐらい小さな家が並んでいた。その中の一軒が幹二朗の生家だった。夕方になると三味線の音や歓楽街のざわめきが聞こえてくるような所で、幹二朗は遊廓を抜けて小学校に通っていた。自身の家系について、幹二朗によれば「うちは原爆で過去帳がなくなったんですが、僕の友達でいろいろ調べてくれた人がいまして、それによると平の祖父母は質屋をやっていて十軒ほど家作 を持っていたらしいんです。思うに僕の家もその一軒で、うちは他の家作 から上がる家賃で暮らしていたんじゃないでしょうか。だから祖母も母も働かないで何とかやっていけたんだと思います。」という。 祖母 祖母は幹二朗が小学校に上がる前に他界。 父・文雄 文雄は広島の大きな廻船問屋の長男だったが、継母に子供がたくさん生まれたので家に居づらくなり、自ら望んで平家の養子になった。その養母が幹二朗の祖母である。文雄は幹二朗が生後九ヵ月の時に病死。そのため幹二朗には兄弟がなく、父の記憶もない。 母・久代(池田福吉の娘) カナダ生まれで移民二世の母は敗戦後、原爆の後遺症に苦しみながら、東京のワシントンハイツでメイドの仕事等、様々な仕事を続けて幹二朗に仕送りを続けた。久代の父池田福吉は広島県甲奴郡上下町で誕生[出典無効]。豊かでない家庭に生まれた福吉は出稼ぎにラハイナ(アメリカ)へと渡った。そこで福吉は同じく出稼ぎにきていた、後に結婚するトキと出会った。福吉は次にバンクーバー(カナダ)へと出稼ぎに向かった。当時、この地のパウエルストリートは日系人に溢れ、日系ミュージアムの資料には福吉の名も記されていた。福吉は当時の移民に排他的な雰囲気に負けず、日系人のための下宿屋をはじめた。カナダの知的財産庁のホームページを調べると、福吉は下水処理装置を開発するなどの功績を残していた。 元妻・佐久間良子(女優) 幹二朗が1968年、ドラマ『お吟さま』で共演した佐久間と結婚したのは、NHK大河『樅の木は残った』に主演した36歳の時だった。1970年4月16日、佐久間と霊南坂教会で挙式。1974年7月27日に双子の一男一女が生まれた。1984年5月に離婚。子供達は佐久間のもとへ渡った。 長男・平岳大(俳優) 岳大は当初、俳優になることに抵抗を持っており、アメリカに渡った後、一般企業に就職していた。しかし、その後、考えを改めて俳優になることを決めたとき、喜んで賛成したという[出典無効]。俳優になってからは幹二朗のことを先輩・演技の師・父として濃密な時間を過ごすことができたと記している。
※この「家族・親族:平家」の解説は、「平幹二朗」の解説の一部です。
「家族・親族:平家」を含む「平幹二朗」の記事については、「平幹二朗」の概要を参照ください。
- 家族・親族:平家のページへのリンク