史跡・施設
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畠山重忠公史跡公園(埼玉県深谷市畠山):畠山館跡(重忠生誕の地)、墓所。 菅谷館址(埼玉県比企郡嵐山町) :重忠の居館であった菅谷館の遺跡。埼玉県立嵐山史跡の博物館 :菅谷館址に建設されている博物館。 二俣川・鶴ヶ峰古戦場(神奈川県横浜市旭区):鶴ヶ峰住民と埼玉県川本村の有志によって建立された畠山重忠公碑などがある(詳細は「二俣川#畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)」および「鶴ヶ峰#史跡」を参照)。これらは横浜市登録地域文化財に登録されている。
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史跡・施設
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本因坊知伯の墓…本因坊知伯は江戸時代の囲碁棋士。後に6世本因坊となった。1983年に杉並区指定史跡文化財になる。
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史跡・施設
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本堂 閻魔堂 「こんにゃくえんま」と通称される閻魔王像及び地蔵菩薩像、奪衣婆像がまつられている。閻魔堂は完成から150年以上たっていたため老朽化しており、現在の建物は2003年に再建されたものである。 汎太平洋の鐘 この鐘は元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものであったが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていた。しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になっていた。しかし戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見される。その後、1974年になって当寺院に返還された。その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となった。現在では除夜の鐘として大晦日に突かれている。 南洋群島物故者慰霊像 第二次世界大戦でサイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像。 塩地蔵尊 地蔵尊の自身治したい部分に相応する箇所に塩につけるとご利益があるという。 毘沙門天 小石川七福神のひとつになっているもの。
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史跡・施設
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鎌倉山ロータリー 鎌倉山3丁目にあるロータリー式交差点。菅原通済はここを鎌倉山開拓の起点として位置づけ、笛田方面に別荘地を切り開いていった。ロータリー部に建つ石柱は関東大震災で倒壊した鶴岡八幡宮の鳥居の柱を流用した物である。なおこの石柱は昭和44年(1968年)に通済が堤義明を介し入手した物で、正面には望月圭介揮毫により「鎌倉山」と彫られ、側面には「建国記念の日二月十一日」と刻まれている。 棟方志功板画美術館 棟方志功が自らのアトリエ跡を昭和49年(1974年)に「棟方板画館」として公開したもの。志功の死後も現在の名前に改名。多くの棟方志功作品が公開されていたが管理していた遺族の高齢化などを理由に2010年に休館(事実上の閉館)。所蔵作品は青森の棟方志功記念館へと移されることになった。 檑亭 別荘分譲開始と共に建てられた別荘だったが、昭和44年(1969年)に料亭となった。山門は鎌倉市西御門にあった寿延山高松寺で寛永19年(1642年)に建立された物を、建物は横浜市戸塚区にあった江戸時代の養蜂農家猪熊家の旧宅をそれぞれ別荘建築の際に移築し、店舗用に改装したものである。また建物内部には明治初期に輸入されたシャンデリアや、日本で初めて生産されたステンドグラスなどが今でも使われている。なお、店名の由来は、当地がすりこぎ(檑)に適した山椒の木が多かったためという。 2003年に鎌倉市の「景観重要建築物」に指定された。 山椒洞(現存せず) 最末期は檑亭の別館となっていた。こちらも元は別荘で昭和8年(1933年)に時の司法大臣岩田宙造が建てた物である。また岩田宙造のあとには女優の田中絹代が居を構えた。こちらも鎌倉市の「景観重要建築物」に指定(檑亭と同一の指定番号)されていたが、檑亭から所有者が移転したため2007年に指定変更(山椒洞を抹消)が行われ、同年に解体撤去された。なお、2008年2月発売の週刊文春や2010年2月発売の日刊ゲンダイの記事によると解体・撤去して跡地利用したのはみのもんたであった。一方、檑亭関係者の話では、檑亭がみのに売った土地は山椒洞の庭園部分であり、建物取り壊しは檑亭の経営的理由という。みのもんたと同夫人(御法川 靖子)が主導して取り壊したわけではない。 爆弾三勇士表勲碑 爆弾三勇士を称えた石柱で、昭和8年(1933年)7月に建てられた。「巍巍赫赫 爆弾三勇士表勲碑」という碑文は時の陸軍大臣荒木貞夫の揮毫によるもので、もとは京急バス住吉駅付近にあった交訽閣の敷地内にあった。太平洋戦争終戦後、GHQによって石碑を撤去される事を恐れた実業家、阿部義次が自らの所有する敷地(現在の鎌倉山神社近辺)に移設した。
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史跡・施設
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金堂…不動明王像などが安置されている。 観音堂…本尊である十一面観音像が安置されている。現在の本尊の十一面観音像は当初ものではなく、後年の新たにつくられたもの。 御影堂…奥の院にある。開基である増島重明によって祀られた弘法大師像が安置されている。普段は秘仏であるが、毎年4月21日に開帳される。開帳と同時期に境内では植木市と稚児行列が行われる。 石仏・石塔…寺院の西部一帯に広がる高野山を模した奥の院にある石仏や石塔。1652年(慶安5年)に徳川家光の一周忌を追悼してさまざまな石仏・石塔を安置したもの。現在でも多くの石仏・石塔が見られ、その数は練馬区最多にのぼる。1956年に東京都の指定文化財(史跡)となる。 地蔵堂 鐘楼…1650年(慶安3年)のもの。練馬区指定有形文化財。 南大門…当寺院の山門で四天王像が安置されている。 仁王門…17世紀後半。練馬区指定有形文化財。 姿見の井戸
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史跡・施設
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 22:38 UTC 版)
本堂…聖観世音菩薩などが祀られている。 不動堂…目白不動明王が祀られている。秘仏となっている。この不動明王は明王自ら左腕を断ち切りそこから火焔が噴き出しているという独特の姿をしており、特別に強い力があるという。 倶梨伽羅不動庚申…境内にある庚申塚。寛文6年(1666年)建立。倶利伽羅明王を主尊とする点で貴重なものといわれている。 丸橋忠弥の墓…江戸時代の武士で、由井正雪と共に慶安の変(江戸時代初期に起きた幕府転覆事件)に加担したとして処刑された。 青柳文蔵の墓…江戸時代の公事師(現在の弁護士・司法書士などに近い職業)。仙台に1831年(天保2年)日本で最初の公共図書館といわれている『青柳文庫』を創設した。
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