畠山重忠と史跡とは? わかりやすく解説

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畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/27 10:06 UTC 版)

二俣川」の記事における「畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)」の解説

畠山重忠はたけやましげただ)は、鎌倉時代武蔵国男衾郡(現:埼玉県深谷市)の武士で、源頼朝忠臣であった人物1205年、重忠のことを疎ましく思っていた北条時政は、重忠を討つために「鎌倉異変あり、至急参上されたし」と偽りの手紙を重忠に送り鎌倉呼び寄せる。重忠は家臣たちを連れて埼玉居城から出発し二俣川付近まで来たときに、北条の軍が牧ヶ原(現:万騎が原)に大挙しているとの報を受けるが、退かずに鶴ケ峰布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍1万騎以上)と激戦繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう。 二俣川駅南口から南方方向程なく行った所にある県営万騎が原団地一角には、地元有志により1892年明治25年)に建立された「畠山重忠遺烈碑」がある。また、1955年昭和30年6月22日には没後750年記念して鶴ケ峰埼玉県川本村有志が「畠山重忠公碑」を鶴ヶ峰建立している。他にも二俣川古戦場周辺鶴ヶ峰)には、「重忠首塚」「すずり石」「六ッ塚」「駕籠塚」「首洗い井戸」など重忠に纏わるものが多く残る(「鶴ヶ峰#史跡」も参照)。これらは横浜市登録地域文化財登録されている。

※この「畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)」の解説は、「二俣川」の解説の一部です。
「畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)」を含む「二俣川」の記事については、「二俣川」の概要を参照ください。

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