畠山重忠と史跡(二俣川古戦場)
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畠山重忠(はたけやましげただ)は、鎌倉時代の武蔵国男衾郡(現:埼玉県深谷市)の武士で、源頼朝の忠臣であった人物。 1205年、重忠のことを疎ましく思っていた北条時政は、重忠を討つために「鎌倉に異変あり、至急参上されたし」と偽りの手紙を重忠に送り、鎌倉に呼び寄せる。重忠は家臣たちを連れて埼玉の居城から出発し、二俣川付近まで来たときに、北条の軍が牧ヶ原(現:万騎が原)に大挙しているとの報を受けるが、退かずに鶴ケ峰に布陣した。畠山軍(134騎)は北条軍(1万騎以上)と激戦を繰り広げるも、戦力の差が大きく、戦には敗れ、重忠は討死してしまう。 二俣川駅南口から南方方向に程なく行った所にある県営万騎が原団地の一角には、地元の有志により1892年(明治25年)に建立された「畠山重忠公遺烈碑」がある。また、1955年(昭和30年)6月22日には没後750年を記念して、鶴ケ峰と埼玉県川本村の有志が「畠山重忠公碑」を鶴ヶ峰に建立している。他にも二俣川古戦場周辺(鶴ヶ峰)には、「重忠首塚」「すずり石水」「六ッ塚」「駕籠塚」「首洗いの井戸」など重忠に纏わるものが多く残る(「鶴ヶ峰#史跡」も参照)。これらは横浜市登録地域文化財に登録されている。
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