占領軍等の犯罪
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「連合国軍占領下の日本」の記事における「占領軍等の犯罪」の解説
「占領期日本における強姦」も参照 連合軍の統治下、外地から引き揚げようとしていた民間人が、満州国や日本の占領地域に侵略してきたソ連兵や朝鮮人や中国人から、虐殺や強姦、強制拉致、監禁、強奪などの激しい被害を受け続けていた。また日本から分断されていた沖縄県だけでなく、日本本土内においてもアメリカ軍兵士による夥しい暴行、殺人、強奪、レイプ事件が日常的に発生していた。占領初期の1か月、神奈川県下だけで2900件の強姦事件が発生し、神奈川県では女学校を閉鎖するなどの処置をとって強姦の防御に努めた。1945年(昭和20年)9月2日から1952年(昭和27年)4月28日にわたる約7年間の占領期間中、本土だけでも少なくとも2536件の占領軍による殺人と3万件以上の強姦事件が発生したとされている。 特殊慰安施設 「特殊慰安施設協会」も参照 アメリカ軍が日本に進駐したわずか最初の10日間に、神奈川県下で1336件の強姦事件が発生した。沖縄戦でも目を覆うような強姦事件が繰り返されており、日本政府はそれらの被害報告を受け、アメリカ兵の強姦対策として銀座に慰安施設を設け、特殊慰安婦を集めた。同年9月28日、今度は連合国軍医総監から東京都衛生局に対し、慰安施設の増設を指示された。9月の同じ時期、千葉県と神奈川県でもアメリカ軍司令部から慰安所を設けるように要請を受けた。東京都や神奈川県の慰安所では、開業前日にアメリカ兵が大挙して押し寄せ、無差別に強姦を行った。神奈川県の慰安所では、抵抗した慰安婦をアメリカ兵が絞殺する事件も起こっている。 また中四国地方においても、イギリス連邦軍兵士向けの慰安施設を設けたほか、性病が蔓延したためイギリス軍による性病対策の講義が基地の中で開かれている。 慰安所設置によって、確かに強姦事件は減少したと考えられている。実際に特殊慰安施設協会が廃止される前の強姦事件と婦女暴行の数は1日平均数は40件だった一方、廃止後の強姦事件と婦女暴行の数は1946年前半の1日平均数で330件に増えている。 1945年(昭和20年)の12月25日、東京都の渉外部長(占領軍司令部の命令にサービスを提供する部署)だった磯村英一は、SCAPの将校から呼び出され、当時焦土と化していた「ヨシワラ」に宿舎を造営して復活させ、占領軍の兵隊のための「女性」を集めるよう命令された。東京都はすでに女性や子供をできるだけ田舎に避難させる政策をとっていたが、占領軍の命令には抗う術もなく、磯村自ら焼け跡地区で困窮生活をしていた一般女性に、食糧を支給すると約束して集める苦渋の決断を下した。都内の焼け残った花柳界も東京をはじめとする関東地域の占領業務に当たっていたアメリカ軍専用に接収された。 レイプ記録に日英米間の差異 イギリス連邦占領軍の公式報告では、軍所属の将兵が1946年5月から1947年までの期間に57件、1948年1月から1951年9月の間に、さらに23件の強姦を犯し有罪判決を受けたとされる。しかしながら、1946年2月から4月にかけてのイギリス連邦占領軍による公式占領当初の重大な犯罪の公式統計は存在しない。また、1945年8月以降のイギリス軍将兵の重大な犯罪の公式統計も存在しない。 アメリカ軍のロバート・アイケルバーガー将軍は、特殊慰安施設協会に乗り込んだ数百人のアメリカ軍兵士が女性たちをレイプしたことをマッカーサー元帥と話し合ったことや、アメリカ軍兵士による日本女性への暴行を防ぐために日本人が設立した自警団を武装した戦闘車両で鎮圧し、自警団幹部らを長期間にわたって刑務所に監禁したことなどを回顧録に残しているが、占領初期のGHQによる1945年9月の「月例報告」では、「日本人はアメリカ兵に協力的であり、占領は秩序正しく、流血なしで行なわれた」などと記載されている。また、GHQ外交局長W.J.シーボルドは「アメリカ兵たちはジャップの女なんかには、手を出す気もしない」と記していた。『敗北を抱きしめて』の著者ジョン・ダワーも、アメリカ軍自身が日本人慰安婦および施設を要請したことについては言及していない。 他方、特別高等警察(1945年〈昭和20年〉10月4日に解散させられ、記録は焼却、一部没収済み)の現存するファイルによれば、1945年8月30日から9月10日の間、占領軍による強姦事件は9、ワイセツ事件6、警官に対する事件77、一般人に対する強盗・略奪など424件の記録が残っている。 調達庁の資料では、7年の占領期間中にアメリカ軍兵士に殺された者が2536人、傷害を負った者が3012人とある。警察資料では、アメリカ軍兵士が日本人女性を襲った事件は2万件記録されている。なおイギリス軍兵士やそれ以外の将兵による事件記録は残されていない。 緘口令 1945年(昭和20年)9月19日、GHQからプレスコードが発令され、占領軍の犯罪行為の報道が日本のメディアから消えた。検閲の存在そのものにも緘口令が敷かれていた。連合国軍兵士の凶悪犯罪は「大男」と記すことによって検閲を免れていたことが、暗黙の了解となっていた。 私生児 アメリカ軍兵士による強姦などにより「GIベビー」と呼ばれる占領軍兵士と日本人女性との混血児が大量に生まれる。混血児の多くは父親が誰か分からず、むろん母親からも歓迎されず、母親の親族や地域社会からも排斥されたため、線路脇などに遺棄されたり、嬰児の遺体を電車の網棚に遺棄するなどされていた。1948年(昭和23年)には混血児に対する民間の救済施設「エリザベス・サンダースホーム」が設立された。しかし同様の施設を日本政府やアメリカ軍が作ることはなかった。同1948年(昭和23年)に優生保護法が施行され、戦前は禁止されていた人工妊娠中絶が法的に認められた。1953年(昭和28年)に厚生省が行った調査によると、国内で4972人のGIベビーが確認されている。 「二日市保養所」も参照 サンフランシスコ講和条約締結以降 サンフランシスコ講和条約19条によって、「日本国と日本国民は、戦争から生じ、又は戦争状態が存在したためにとられた行動から生じた連合国及びその国民に対するすべての請求権を放棄し、占領軍又は当局の存在、職務遂行又は行動から生じたすべての請求権を放棄。占領時代の指令や法律下での連合軍の作為・不作為による行為は民事又は刑事の責任に問ういかなる行動もとらない」とされた。 連合国軍による占領終了後の1958年においても、アメリカ軍兵士の日本における一年間の犯罪は公式に記録されていたものだけでも9998件、婦女暴行事件の件数は1878件だった。 1971年(昭和46年)までアメリカ軍軍政下にあった沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は、1953年(昭和28年)から1971年(昭和46年)までの18年間で1万5220件(このうち死亡222件、傷害560件)が記録されている。沖縄が日本に返還された後も沖縄県でのアメリカ軍人・軍属による刑事事件は多発している。 1961年(昭和36年)11月11日、日本政府は『連合国占領軍等の行為等による被害者等に対する給付金の支給に関する法律』を定め、「連合国占領軍等の行為等により負傷し、又は疾病にかかつた者、及び連合国占領軍等の行為等により死亡した者の遺族」に対し、日本政府から給付金を支給するように法制化した。
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