初期と第二次世界大戦とは? わかりやすく解説

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初期と第二次世界大戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/24 02:51 UTC 版)

カミチア・ネーラ (駆逐艦)」の記事における「初期と第二次世界大戦」の解説

就役直後は、スペイン内戦で2回の任務参加し1939年5月には、ユーゴスラビア王国摂政であるパヴレ・カラジョルジェヴィチ王子来訪合わせてナポリ行われた海軍パレード参加した第二次世界大戦勃発時、姉妹艦アルティリエーレ、ジェニエーレ、アヴィエーレとともに11駆逐艦部隊構成していた。 1940年6月11日に第11駆逐艦部隊の他の姉妹艦、第12駆逐艦部隊アスカリ、ランチエーレ、カラビニエーレ、コラッツィエーレ(イタリア語版))、第3巡洋艦分隊重巡洋艦トレントポーラボルツァーノ)および第7巡洋艦分隊軽巡洋艦ムツィオ・アッテンドーロおよびエマヌエレ・フィリベルト・デュカ・ダオスタ)とともにシチリア海峡での偵察任務赴いた6月19日に第11駆逐艦部隊の他の3艦とともにアウグスタからリビアベンガジへ補給物資輸送行い翌日到着した7月7日1545時に駆逐艦部隊一部第3巡洋艦分隊トレントおよびボルツァーノ)はメッシーナ出航し第2艦隊の他の艦艇重巡洋艦ポーラ、第1、第2および第7巡洋艦分隊の計9隻および第9、第10、第12および第13駆逐艦部隊)に加わってリビアへの輸送任務務めた後に、第1艦隊加わって7月9日カラブリア沖海戦参加した。この衝突でのイタリア艦隊撤退中に、第11駆逐艦部隊は1615時にイギリス艦艇発見して攻撃開始しカミチア・ネーラ1620時にアルティリエーレ張った煙幕からでて敵艦から10,800 mまで進出し、他の3艦ともども魚雷攻撃行ったが(戦艦に対して7発、巡洋艦に対して3発の合計10発の魚雷発射した)、攻撃成功しなかった。 10月6日の朝、姉妹艦3隻とともにリビアに向かう航路で2隻の商船と4隻の駆逐艦目視した第3巡洋艦分隊トレントトリエステボルツァーノ)に合流し、"CV"作戦実行するのを支援するためにメッシーナ離れたが、イギリス戦艦目視したのちに全艦艇帰港した1940年10月11日から12日にかけての夜、ジョヴァンニ・オリヴァ中佐指揮の下、第11部隊の僚艦3隻及び第1部隊の水雷艇アルシオーネイタリア語版)、アイローネ(イタリア語版)、アリエル)を伴ってマルタ島東海域に、当海域にいるはずの英艦を探す哨戒任務派遣された。 10月12日の夜の早い時間に、第1部隊の水雷艇3艇がマルタへの船団護衛後でアレクサンドリア帰投中のイギリス海軍大船団の一部である軽巡洋艦エイジャックス攻撃し戦闘の後にアイローネとアリエル沈没したが、エイジャックス損害軽微だった。攻撃先立って、0137時に水雷艇探知信号送ったが、これは第11駆逐艦部隊艦艇ごとにことなる時刻受信されカミチア・ネーラ受信後に北に転針し、0247時に巡洋艦をしにして主砲で2発の斉射行って攻撃避けるために反転して距離をとった(アヴィエーレアルティリエーレ深刻な損傷受けていた)。がエイジャックスから攻撃され結果、ジェニエーレが敵艦発見できない間にアルティリエーレその後総員退艦して英巡洋艦ヨークによって沈められた)とアヴィエーレ深刻な損害負い夜明け直後損傷受けたアヴィエーレ遭遇してアウグスタ護送した。朝の4時ごろにカミチア・ネーラ被弾して航行不能になっていたアルティリエーレ曳航開始したが、0810時に2艦は航空攻撃を受けるとともに水平線上に2隻の巡洋艦と3隻の英駆逐艦視認した。カミチア・ネーラ曳航ケーブル切り離し全速力アウグスタ撤退せざるを得なかった。アルティリエーレが英巡洋艦ヨークによる砲撃沈没する間に、煙幕退路隠蔽しカミチア・ネーラ全速力シチリア港に向かうことでどうにか戦闘機からの攻撃逃れ正午ごろに無事に帰投した。 1941年中に証明発射砲が5門目の120mm砲に換装された。 1941年2月8日ラ・スペツィアから出航した13駆逐艦部隊(グラナティエーレ(イタリア語版)、ベルサリエーレ(イタリア語版)、フチリエーレ(イタリア語版)、アルピーノ)、第10駆逐艦部隊マエストラーレグレカーレリベッチオシロッコ)および戦艦ヴィットリオ・ヴェネトチェザーレドーリア合流し爆撃のためにジェノヴァ目指すイギリス艦隊邀撃するためにナポリから出航した翌日には駆逐艦カラビニエーレおよびコラッツィエーレ(イタリア語版)をともなってメッシーナ出航した第3巡洋艦分隊トレントトリエステボルツァーノ)と合流したが、爆撃阻止することも、イギリス艦を発見することもできなかった。 1941年2月24日駆逐艦バレンコ、ジェニエーレ、サエッタイタリア語版)、水雷艇アルデバラン、オリオーネおよびとともにナポリからトリポリ兵員輸送船マルコ・ポーロ、コンテ・ロッソ、エスペリアおよびヴィクトリア護衛した間接的な護衛として軽巡洋艦ディアスおよびバンデ・ネーレ、駆逐艦アスカリおよびコラッツィエーレ(イタリア語版)が同行し翌日に英潜水艦アップライトディアス雷撃し、同艦は北緯3433分、東経11度45分沈没し乗員のほとんどが沈没巻き込まれた。 3月12日から13日にかけて、駆逐艦フォルゴーレパレルモから出航し、後から合流した)、ジェニエーレとともにナポリからトリポリへと向かう兵員輸送船コンテ・ロッソ(イタリア語版)、マルコ・ポーロビクトリアからなる輸送船団の間接護衛任務努めた4月14日トリポリへ向かう蒸気船アリカンテサンタ・フェマリツァプローチダ駆逐艦グレカーレ、ジェニエーレ、アヴィエーレ水雷艇プレイアディ(イタリア語版とともに護衛するためにナポリ出航しイギリス艦の攻撃避けるために17日から4月18日の8時までパレルモ停泊したのちに護送船団航海続けリビアの港には20日到着した5月11日商船プロイセン、ヴァハテル、エルネスト、テンビエン、ジュリアコル・ディ・ラーナおよび駆逐艦ダルドイタリア語版)、ジェニエーレ、アヴィエーレグレカーレシロッコからなる護送船団護衛してナポリ出航し14日トリポリ到着した6月3日駆逐艦ダルド、ジェニエーレ、アヴィエーレおよび水雷艇ミッソーリ(イタリア語版)に護衛され商船アキタニア、カファーロ、ニルヴォ、モンテッロ、ベアトリーチェ・コスタおよび油槽船ポツァリカからなる「アキタニア」護送船団一部としてナポリ・トリポリ間を航海し6月4日ケルケナ諸島沖合30 km航空機からの攻撃を受け、モンテッロ被弾して誰も脱出できないうちに爆発しドラム缶入れたガソリン積載していたベアトリーチェ・コスタも被弾して火災発生しカミチア・ネーラ救助しようとしたが間に合わなかったため、カミチア・ネーラによって沈没させられた。 8月4日蒸気船ニータ、アキタニア、エルネスト、ニルヴォおよびカステルヴェルデ内燃機タンカーのポツァリカを加えた船団護衛してナポリ出航し残り護衛駆逐艦ジョベルティ、ジェニエーレ、オリアーニ、アヴィエーレおよび水雷艇カリオペーイタリア語版))、8月6日カミチア・ネーラカリオペー援護したにも関わらずニータがイギリス空軍830スコードロン航空機から攻撃され北緯3515分東経12度17分で沈没したが、カミチア・ネーラ漂流者救助しようとした果たせなかった(船団の他の船舶目的地翌日到着した)。 8月29日から9月2日にかけて、兵員輸送船ヴィクトリア、ネプチュニア、オケアニアからなる船団護衛して駆逐艦ジョベルティ、ダ・ノーリ(イタリア語版)、アヴィエーレ、ウゾディマーレ(イタリア語版)、ペッサーニョ(イタリア語版)が同行最初ナポリからトリポリ向かい次にトリポリからターラントった。英潜水艦アプホルダーから攻撃されにも関わらずすべての船舶無傷目的地到着した9月23日にはアヴィエーレとともにマルタ南東機雷敷設するランチエーレ、カラビニエーレ、アスカリおよびコラッツィエーレを護衛した10月12日13日の夜、駆逐艦ヴィヴァルディイタリア語版)、マルチェッロイタリア語版)、ピガフェッタ(イタリア語版)、ダ・ヴェラッツァーノ(イタリア語版)、アヴィエーレおよび軽巡洋艦エウジェニオ・ディ・サヴォイア、モンテクッコリ、デュカ・ダオスタとともに機雷敷設するはずだったが、地中海艦隊海域から離脱したことをうけて命令撤回された。 1月21日0810時、リビアへの2組船団間接的に護衛するためにアヴィエーレ、ジェニエーレ、コレッツィエーレ、カラビニエーレおよび巡洋艦ガリバルディ、ドゥーカ・デッリ・アブルッツィとともにナポリ出航した作戦航空および水中攻撃(ドゥーカ・デッリ・アブルッツィおよび重巡洋艦トリエステ深刻な損害受けた)によって失敗しカミチア・ネーラターラント帰還する間、油槽船イリディオ・マントヴァーニを護衛するために船団離脱した12月13日1940時、戦艦ドーリア巡洋艦アッテンドーロ、デューカ・ダオスタおよび駆逐艦アスカリアヴィエーレとともにM41作戦商船6、駆逐艦1、水雷艇1を含むリビアへの3船団)を間接的に護衛するためにターラントから出航したが、2隻の商船(ファビオ・フィルツィとカルロ・デル・グレコ)が沈められ戦艦ヴィットリオ・ヴェネト深刻な損傷受けた潜水艦からの攻撃によって打撃を受け、アヴィエーレ駆逐艦ヴィヴァルディ、ダ・ノーリ、ジェニエーレ、カラビニエーレ、カミチア・ネーラおよび水雷艇リンス、アレテューサとともにターラントにもどるヴィットリオ・ヴェネト護衛するために出向いた。 12月16日アスカリアヴィエーレおよび戦艦ドゥイリオ、巡洋艦デューカ・ダオスタ、アッテンドーロ、モンテクッコリとともにリビアへの船団輸送作戦M42補給品14,770トン兵員212名を積載した4隻の輸送船駆逐艦7隻および水雷艇1が使用された)の近接防御行い成功裏完了した1942年1月3日1850時、駆逐艦カラビニエーレ、アルピーノアスカリ、ピガフェッタ、ジェニエーレ、ダ・ノーリ、アヴィエーレおよび重巡洋艦トレントゴリツィア戦艦リットリオチェザーレドーリアとともにM43作戦総計商船6、駆逐艦6、水雷艇5からなるリビアへの3つの船団)を間接的に護衛するためにターラント出航し1月5日17時カミチア・ネーラ属する「リットリオグループ全ての商船無事に目的地到着しトーラントへと帰還した1月22日駆逐艦ヴィヴァルディ、マロチェッロ、ダ・ノーリ、ジェニエーレ、アヴィエーレおよび水雷艇オルサ(イタリア語版)、カストーレとともに、T18作戦合計物資15,000トン戦車97両、車両271両および人員1,467名を輸送するためにトロント出航した兵員輸送船ヴィクトリアメッシーナ出航した貨物船ラヴェッロモンヴィーゾ、モンジネヴロ、ヴェットル・ピサーニからなる船団)の直接護衛担当し23日航行中ヴィクトリア雷撃機3機による魚雷攻撃によって航行不能となり、カミチア・ネーラ漂流者救助するために海域に留まった(乗員1,455名のうち1,064名は救助された)。 2月21日16時駆逐艦アスカリ、ジェニエーレ、アヴィエーレおよび戦艦ドゥイリオとともにターラント出航しK7作戦貨物船5、油槽船1、駆逐艦10水雷艇10からなるトリポリ目指し2つ船団)を間接的に護衛したカミチア・ネーラ6月中旬戦い1942年6月12日16日)では、イギリスヴィゴラス船団(まだ到着していなかったが、マルタ目指していた)を阻止するために出動した艦隊護衛し戦闘中雷撃機によって航行不能とされ、英潜水艦アンブラ英語版)にとどめを刺され重巡洋艦トレント救助作業行った。 同艦は8月中旬戦い1942年8月11日13日)にも参加した1942年中に20mm65口径機銃と、探信儀装備された。 10月4日駆逐艦サエッタイタリア語版)、ピガフェッタとともにブリンディジからベンガジへ貴重な積荷燃料3030トン弾薬70トン戦車28両、車両144両、その他の物資1060トン)を運ぶ内燃機船セストリエーレ護衛部隊に合流した部隊にはすでにフォルゴーレ、ゼーノ(イタリア語版)、水雷艇アンタレスイタリア語版)が参加していた)。10月6日の朝、カミチア・ネーラとゼーノは米軍爆撃機攻撃続いていたのにも関わらず船団離れてナヴァリノ目指し10月7日1130時に無傷到着した同年10月17日アヴィエーレおよびジェニエーレとともに内燃機船アンカラ護衛としてコルフ島から出航し船団水雷艇オルサおよびアレテューサに護衛され内燃機船モンジネヴロ(ブリンディジから出航)と合流し駆逐艦アルピーノ補強され航海終わり向けて船団分割し、他船がトブルク向かった間に、アヴィエーレ、モンジネヴロ、ジェニエーレ、カミチア・ネーラベンガジ追いついた。 11月にはジェニエーレとともに近代的な内燃機船フォスコロスダ英語版)およびベンガジ護衛した駆逐艦ダ・レッコ、フォルゴーレ水雷艇プロシオーネ(イタリア語版)、クリオイタリア語版)およびH船団兵員1766名、弾薬主とする物資698トン車両32両、戦車4両、大砲12門を輸送する兵員輸送船アヴェンティーノプッチーニドイツ軍輸送船KT 1、フェリーアスプロモンテ)をパレルモ護送するために12月2日深夜にアドリアーノ・フォスカリ中佐指揮の下、パレルモ出航したウルトラ組織英語版)(エニグマ暗号解読担当した英陸軍情報グループ)を通じて輸送船団存在知ったイギリス海軍はこれに対してQ部隊軽巡洋艦オーロラシリアスアルゴノート駆逐艦クエンティンキベロン)を出撃させた。0037時に艦隊はH船団迎撃し、スケルキ礁(チュニジア沿岸)の近く攻撃した(スケルキ礁の戦いイタリア語版))。1時間に及ぶ激し衝突すべての輸送船沈没し修復不可能な損傷受けて放棄され漂流していたプッチーニを除く)、フォルゴーレ、ダ・レッコ、プロシオーネが深刻な損傷受けた右翼防衛していたカミチア・ネーラは、護衛部指揮官(ダ・レッコのアルド・コッチア中佐)が発した反撃命令即座に実行した120㎜砲で砲撃しイギリス艦まで2,000 mに迫り、0043時に魚雷3発を左舷側に発射したが、敵艦右舷側に転針したため命中しなかった。その後、同艦は進路反転したが、Q部隊砲火巻き込まれて元の進路戻し移動する前にさらに魚雷3発を発射したがこれも命中しなかった。0107時、戦闘海域復帰しようと試みている最中カミチア・ネーラ船体周囲落下した多数砲弾囲まれ前進試みた後で英艦の砲撃によって阻止され、0114時に破壊されないように後退せざるを得なかった。戦闘後カミチア・ネーラクリオとともに最初に救助活動開始し158名の漂流者救助し12月2日午後に航行不能火災起こしていて、救助不能だったプッチーニ砲撃して沈没させた。その後同日20時にトラパニ帰投した。この船団激し防御によって、フォスカリ司令官武功勲章授与された。 1942年12月16日に、姉妹艦アヴィエーレとともにドイツ内燃機船アンカラビゼルト護送するためにナポリ出航した12月17日1115時、ビゼルトの北約40マイル位置で、英潜水艦スプレンディドアヴィエーレ魚雷攻撃しアヴィエーレ爆発して北緯38度00分、東経10度05分に沈んだ生存者一人急いで逃げ出したカミチア・ネーラアンカラ救助されなかった(アヴィエーレ乗組員230名のうち、最終的に生還したのは30名だった)。

※この「初期と第二次世界大戦」の解説は、「カミチア・ネーラ (駆逐艦)」の解説の一部です。
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