タポチョ山の攻防戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 10:48 UTC 版)
「サイパンの戦い」の記事における「タポチョ山の攻防戦」の解説
マリアナ沖海戦が戦われている頃、タポチョ山付近に後退していた日本軍は防衛線を再構築していた。斎藤は北地区を守っていたため砲爆撃による損害が少なかった第135連隊や、師団予備兵力の第136連隊第3大隊を主力として防衛戦を再構築することとし、サイパン西岸はガラパン市街を防衛する海軍部隊、防衛線の中核となるタポチョ山や連なる高地群には、歩兵第135連隊、第136連隊第3大隊、独立歩兵第318大隊、サイパン東側のラウラウ湾からサイパン東端のカグマン半島方面にはアメリカ軍の再上陸を警戒して、歩兵第118連隊、独立歩兵第315大隊が配置された。 新たな防衛線を構築した時点での日本軍の残存兵力は下記の通りと推定される。 第43師団:9,000名、砲兵13門 独立歩兵第47旅団・その他:6,000名 軍砲兵全滅、戦車2両、高射砲1個中隊、機関砲1個中隊 アメリカ軍の作戦は第一次作戦がアスリート飛行場の占領で、態勢を立て直し6月21日以降は第二段階として日本軍残存部隊の殲滅を図るものと予想されていた。その為6月20日は主陣地方面では大きな動きは無かったが、サイパン島の南東方面のナフタン半島には第317独立歩兵大隊、高射砲第25連隊第一中隊、アスリート飛行場の海軍基地員の残存兵が立て籠もり、6月18日よりアメリカ軍の攻撃に対して未だ激しい抵抗を示していた。またアメリカ軍支配地域でも日本軍の残存兵がゲリラ活動を続けており、後方施設を破壊し補給活動の妨害を行っており、チャラン・カノアでは第2海兵師団の弾薬倉庫の爆破に成功している。 6月19日に、先の総攻撃で壊滅した戦車第9連隊の生存者30名が、ガラパンにトラック島に移送予定だった95式軽戦車10両がそのまま放置してあることを聞きつけ、その内稼働した9両に分乗し再度戦車攻撃を仕掛けた。6月20日の夜半に40km/hの最高速でアメリカ軍の歩兵を蹴散らしながらツツーランの陣地に夜襲をかけたが、前回と同様に照明弾で昼の様な明るさの戦場でM4中戦車と対戦車砲の集中砲撃で壊滅し、戦車を失った戦車第9連隊の将兵は戦車から外した機銃等を持ち歩兵部隊に合流した。アメリカ軍の記録によれば、日本軍の戦車攻撃を受けたのは6月23日夕方から夜にかけてであり、第165歩兵連隊と第106歩兵連隊の境界付近に突進してきた日本軍戦車は、バズーカと37㎜対戦車砲で5輌が撃破されながらも、残る5輌が第106歩兵連隊第3大隊の弾薬庫に砲撃を命中させてこれを誘爆させ、第3大隊は100ヤードの後退を余儀なくされている。その後日本軍戦車は第23海兵連隊の前線に突入したが、ここでバズーカと37㎜対戦車砲により3輌が撃破され、残りの2輌は撤退した。さらに、24日にも7輌の日本軍戦車がガラパンの方面から突撃してきたが、海兵隊のM4中戦車「ジョニー・オン・ザ・スポット」とM3 75mm対戦車自走砲4輌が駆けつけて正確な砲撃を浴びせ、うち6輌を撃破している。 アメリカ軍は6月22日に、2個海兵師団と1個陸軍歩兵師団が横に並んで日本軍が構築した防衛線に対して攻撃を開始した。第2海兵師団が西側を進撃、サイパンの最高峰であるタポチョ山が攻略目標とし、中央を第27歩兵師団が進撃、東側を第4海兵師団が進み、攻略目標はカグマン半島であった。このうち、最も激しい戦いとなったのが第27歩兵師団担当地域となり、歩兵第135連隊長小川榮助大佐が、タポチョ山に連なる高地群に地形を巧みに利用した陣地を構築させて、同連隊を主力とした守備隊がその陣地で迎え撃ち、第27歩兵師団は頑強な抵抗を受けて全く進撃ができなかった。あまりに死傷者が続出するのでアメリカ軍はこの峡谷に「死の谷」とか「パープルハートリッジ」とか「地獄谷」とか思いつく限りの禍々しい名前を付けた。 山腹にある洞穴から日本軍は重迫撃砲や重機関銃で攻撃してくるも、下にいるアメリカ軍戦車からは角度的にその洞穴を戦車砲で攻撃する事ができなかったので、手榴弾や銃剣や時には素手による日本とアメリカ両軍の歩兵での激しい白兵戦が展開された。それでもアメリカ軍は一日に100ヤード(91m)も前進できなかった。とくに第27歩兵師団の第165歩兵連隊と第106歩兵連隊が「死の谷」と「パープルハートリッジ」で苦戦して殆ど進撃できておらず、両翼を進撃していた海兵隊が側面から日本軍の攻撃を受ける懸念が大きくなり、6月23日のアメリカ軍の総攻撃は失敗に終わった。6月24日にも、第27歩兵師団第106連隊は、上陸軍指揮官のホーランド・スミスの叱咤を受けて、「死の谷」に向けて前進を開始した。しかし、峡谷からの日本軍の激しい砲撃で支援していたM4中戦車が次々と撃破され、歩兵も中隊長が狙撃で戦死するなど殆ど前進することができず、最後には煙幕を焚いて撤退を余儀なくされている。結局、第106歩兵連隊は昨日の2倍の死傷者を出しながらも、昨日の進撃出発点に戻されただけとなった。 あまりの第27歩兵師団の苦戦に業を煮やしたホーランド・スミスが、スプルーアンスの旗艦「インディアナポリス」に乗り付けて第27歩兵師団長ラルフ・スミス(英語版)少将の更迭を申し出た。その理由はラルフ・スミスの指揮が、今回の攻撃失敗を含めて、上陸以来適切でなかった上に、師団長に任命されて20ヶ月経つが、その間にマキンの戦いにおける失態など、満足できるレベルまで第27歩兵師団の戦力を向上させる事ができなかったということであった。スプルーアンスはこのことにより陸軍の名誉が傷つけられ、陸海海兵隊3軍の関係が悪化し今後の作戦に支障をきたす事を懸念し躊躇したが、結局はマリアナ諸島の陸上作戦の総責任者であるホーランド・スミスの意見を尊重してラルフ・スミスを更迭した。後任はスタンフォード・ジャーマン少将となったが、師団長を挿げ替えたところで戦況に大きな進展も無かった上に、ジャーマンは進撃遅延の責任を取らせて第106連隊長ラッセル・G・エアーズ大佐を更迭したため、逆に第27歩兵師団の士気は下がり、わずか4日後の6月28日にはジョージ・W・グライナー(英語版)少将に師団長が再度変更になるといったドタバタ劇を演じている。この更迭事件は『スミスVSスミス事件』と呼ばれてアメリカ軍内で大問題に発展し、スプルーアンスの心配通り、この後の3軍の連携に大きな影響を与えている。この後の3軍連携の大規模作戦となった沖縄戦では陸上作戦の総指揮官は陸軍のサイモン・B・バックナー中将となったが、陸軍のバックナー中将に対し海軍や海兵隊は気兼ねせざるを得なくなって積極的な作戦提案等がしにくい状態となり、沖縄戦苦戦の一因となった。 上陸以来2週間に及ぶ激戦で、戦死者数は圧倒的に日本軍が多かったが、アメリカ軍も数千人単位で戦死者が出ており埋葬が間にあわなくなっていた。その為、死体袋が砂浜にうず高く積み上げられる状態となり、それを見たアメリカ兵士の士気に大きな影響が出かねなかったため、途中から海軍の艦艇に積んで沖合で水葬にすることとしている。 日本軍守備隊がタポチョ山でアメリカ軍の進撃をよく足止めしていた6月24日に、参謀長井桁は大本営に、「イ」号作戦による増援と航空支援を要請しているが、しかし大本営の方針は前述の通りサイパン放棄であり、増援は送れない旨返電している。同日には井桁の命で、第43師団と海軍の司令部が電信山にあったコンクリート製の第31軍司令部に合流した。しかし、戦傷を負った者やマラリアに罹患した者もいたうえ、絶望的な戦況で精神状態も平静ではなく、司令部内では井桁がヒステリックに大声を発することもあったという。支援が期待できない大本営に対して、第31軍独自でのサイパン救援努力は続けられており、6月25日夜にはテニアンから11隻の大発動艇に分乗した増援部隊を送り込もうとしたが、アメリカ軍の駆逐艦2隻に発見され、1隻の大発動艇が撃沈されて撃退されている。 その後もタポチョ山の攻防戦は続き、「死の谷」と「パープルハートリッジ」で第27歩兵師団が苦戦していた6月25日には第2海兵師団はタポチョ山山頂に到達し、日本軍歩兵第135連隊と激しい争奪戦を6月26日まで繰り広げている。特に第6中隊(大津理作中隊長)の勇戦は目覚ましく、アメリカ軍の迫撃砲陣地や照明班を撃破し山頂を死守していたが、撤退を命じられると、撤退の途中でアメリカ軍の戦闘指揮所を襲撃し150名のアメリカ兵を掃討して無事に本隊に合流している。タポチョ山では日米両軍の激しい近接戦闘が続いていた。日本兵の多くが銃を持たず訓練用の木銃に銃剣を結び付けて銃剣代わりにして突撃し、手榴弾を投擲してきた。激しい白兵戦の中で日本軍の手榴弾から味方の部隊を守る為、自ら日本軍が投擲してきた手りゅう弾の上に覆いかぶさって戦死したハロルド・G・エパーソン(英語版)一等兵は、アメリカ軍の最高勲章であるメダル・オブ・オナーを受章している。激しい白兵戦の後に6月26日中には山頂はアメリカ軍の支配下となり、日本軍はその夜夜襲をかけたがついに奪回できなかった。 この頃になると日本軍は第31軍司令官小畑がグアムにおり、陸戦の最高責任者が現地不在だったのに対して、サイパン島には中部太平洋方面艦隊司令長官南雲、第43師団師団長斎藤、第31軍参謀長井桁など多くの高級将官がいたため、通信手段の断絶もあって命令が入り乱れ指揮が混乱していた。戦闘に参加する部隊もあれば、命令だからといって後退する部隊もおり作戦が一貫していない場合もあったという。 6月27日になるとタポチョ山はほぼアメリカ軍に制圧され、「死の谷」「パープルハートリッジ」で苦戦していた第27歩兵師団の第165歩兵連隊と第106歩兵連隊も両翼の海兵師団と肩を並べるところまで進撃してきた。なおも、少なくなった戦力での日本軍の抵抗は続き、6月28日には第165歩兵連隊長ジェラール・W・ケリー大佐が日本軍の迫撃砲によって重傷を負い、のちに戦死している。第165歩兵連隊は前連隊長のガーディナー・コンロイ大佐もマキンの戦いで日本軍の狙撃で戦死しており、続けての連隊長の戦死となった。陸海海兵隊3軍の関係悪化を招くほど苦戦してようやくタポチョ山を攻略したホーランド・スミスは、従軍記者からの取材に対して「日本軍は、今までのところはなかなか、要領よくやってるよ。私はまだバンザイ突撃をやるところは見てないがね。彼らは遅滞作戦を戦っている。当分の間は、できるだけ多数の我が軍を殺そうとしているのだ。」とこれまでの日本軍の作戦を評して、今後も多数の死傷者が出るという考えも述べている。 6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討され、残存部隊はガラパン方面に撤退したが、これまで頑強に抵抗してきた歩兵第135連隊の兵士も最後にはパニックを起こして先を争って退却を始めたため、近接していたアメリカ軍の攻撃でバタバタと倒された。防衛戦をこれまで指揮していた歩兵第135連隊長小川も、残存部隊と撤退中に戦死している。攻略には成功したもののアメリカ軍の損害は大きく、このタポチョ山の一連の戦いでの死傷者は、第27歩兵師団1,465名 第2海兵師団1,016名 海兵第4師団1,506名 合計3,987名に上った。特に「死の谷」と「パープルハートリッジ」で苦戦した第27歩兵師団は第165連隊長のケリーが戦死、2名の大隊長も戦死、中隊長は22名が死傷するといったように高級将校の損失が大きかった。
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