ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへとは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへの意味・解説 

ソ連による赴任拒絶・第二次世界大戦直前のヨーロッパへ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 00:05 UTC 版)

杉原千畝」の記事における「ソ連による赴任拒絶・第二次世界大戦直前のヨーロッパへ」の解説

1937年昭和12年)にはヘルシンキ在フィンランド日本公使館赴任するちなみに千畝は当初念願であったモスクワの在ソビエト連邦日本大使館赴任する予定であったが、ソビエト連邦側が反革命的な白系ロシア人との親交理由に、ペルソナ・ノン・グラータ発動して千畝の赴任拒絶した当時の『東京朝日新聞』(1937年3月10日付)は、「前夫人が白系露人だったと言ふ理解される」と報じた日本の外務省ソ連政府への抗議続けとともに、千畝に対す事情聴取行い、それは『杉原通訳官白系露人接触事情』という調書にまとめられた。そのなかで千畝は、「白系露人政治的に接触したことはなく、むしろ諜報関係で情報収集のためにあえて赤系のソ連人と接触していた、そのため満洲外交部移籍してからは、共産主義者嫌疑かけられ迷惑した」などと述べている。日本政府は、ライビット駐日ソ連臨時大使呼び出して杉原入国拒否理由再三尋ねソ連敵愾心持っていた白系ロシア人との親密な関係を指摘されたが、それは具体的な証拠のないものだった北満鉄道譲渡交渉控えた千畝の事前調査は、それがどのような経路行われたのかソ連側把握できないほど周到なのだったソ連最後まで入国自体認めなかったために、千畝は行先近隣ヘルシンキへと変更された。バルト三国初めとしたソ連周辺国に、千畝を含む6名ものロシア問題専門家同時に辞令発令されたのは、ノモンハン事件における手痛い敗北の結果、対ソ諜報喫緊の課題になったためであるという。 1938年昭和13年3月4日杉村陽太郎・駐仏日大使は、パリ日本大使館から、ヘルシンキ着任している「杉原通譯官至急當館ニ轉任セシメラレ」たしと直訴する広田弘毅外務大臣への極秘電信送った。千畝を自分の手元におきたかった杉村は、電信に「タタ發令官報省報職員録ニハ一切發表セサルコト」と付記したが、広田外相は「遺憾ナカラ詮議困難ナリ」とこれを拒絶し、千畝の引き抜き作戦失敗帰したというのも、千畝には、独ソ間で日本国家存亡係わる大任務が待ち受けていたからである。 1939年昭和14年)にはリトアニアの在カウナス日本領事館領事代理となり、リトアニアで生活を開始した8月28日カウナス着任する着任直後9月1日ドイツポーランド西部侵攻し第二次世界大戦が始まる。独ソ不可侵条約付属秘密議定書に基づき9月17日ソ連ポーランド東部への侵攻開始する10月10日リトアニア政府は、軍事基地建設部隊駐留認めることを要求したソ連最後通牒受諾する1940年6月15日ソビエト軍リトアニア進駐する杉原千畝カウナスにおける任務具体的内容については、1967年昭和42年)に書かれロシア語書簡冒頭で、以下のように述べられている。 カウナスは、ソ連邦併合される以前リトアニア共和国における臨時首都でした。外務省命令で、1939年の秋、私はそこに最初日本領事館開設しましたリガには日本大使館ありましたが、カウナス公使館外務省直接命令系統にあり、リガ大使館とは関係がありませんでしたご指摘通りリガには大鷹正次郎氏がおり、カウナスは私一人でした。周知のように第二次世界大戦数年前参謀本部属す若手将校の間に狂信的な運動があり、ファシストドイツ親密な関係を取り結ぼうとしていました。この運動の指導者一人大島浩駐独大使であり、大使日本軍陸軍中将でした。大島中将は、日独伊三国軍事同盟立役者であり、近い将来におけるドイツによる対ソ攻撃についてヒトラーから警告受けていました。しかし、ヒトラー言明全幅の信頼寄せることが出来なかったので、大島中将は、ドイツ軍本当にソ連攻撃するつもりかどうか確証つかみたい思っていました日本参謀本部は、ドイツ軍による西方からのソ連攻撃に対して並々ならぬ関心持っていました。それは、関東軍、すなわち満洲駐留する精鋭部隊をソ満国境から可及的速やかに南太平洋諸島転進させたかったからです。ドイツ軍による攻撃日時迅速かつ正確に特定することが、公使たる小官主要な任務であったのです。それで私は、何故参謀本部外務省に対してカウナス公使館開設執拗に要請したのか合点がいったわけです。日本人誰もいないカウナス日本領事として赴任し会話や噂などをとらえてリトアニアドイツとの国境地帯から入ってくるドイツ軍による対ソ攻撃の準備部隊集結などに関するあらゆる情報を、外務省ではなく参謀本部報告することが自分役割であることを悟ったのです。 — 1967年書かれた千畝による露文書簡冒頭部分 日本人がほとんどいないカウナスに千畝が赴任してきたことに驚いて興味持った地元紙『セクマディエニス』は早速領事館取材申し込み、「日出ずる国からの来客」「日本どのような国か」という見出し特集組んだ杉原一家写真つきで紹介され特集記事で、「日本ではそれぞれの家に風呂があり、日本人毎日風呂に入るというのは本当ですか」「日本女性の地位どうでしょうか」「女性社会生活参画していますか」といった質問に千畝は一つひとつ生真面目答えた。さらに、日本における売春実態などにも言及したほか、日本リトアニア貿易発展可能性示唆しリトアニア習慣食事対す自身見解述べた。これにより、1906年のステポナス・カイリース(リトアニア語版、英語版)の『日本論』(全3巻以来ちょっとした日本ブーム引き起こした。 千畝が欧州派遣され1938年昭和13年)、当時ドイツユダヤ人迫害政策によって極東に向かう避難民増えていることに懸念を示す山路ウィーン総領事初代)は、ユダヤ難民日本向かった場合方針照会する請訓電報送り同年10月7日近衛文麿外務大臣から在外公館への極秘訓令が回電された。千畝がカウナス臨時領事館開設する直前のことである。その訓令猶太避難民ノ入國ニ關スル件」は、以下のようなものであった。 「貴殿第三九號ニ關シ、陸海軍内務各省協議結果獨逸伊太利ニ於テ排斥ヲ受ケ外國避難スル者ヲ我國ニ許容スルコトハ、大局上面白カラサルノミナラス現在事變下ノ我國ニ於テハ是等避難民收容スルノ餘地ナキ實情ナルニ付、今後ハ此ノ種避難民外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト、實際猶太人避難民ヲ意味ス)ノ本邦内地竝ニ各殖民地ヘノ入國ハ好マシカラス(但シ、通過ハ此ノ限ニ在ラス)トノコトニ意見一致ヲ見タ」 【現代語訳貴殿山路総領事)が発信した39号請訓電報)に関し陸海軍及び内務各省協議結果、「ドイツおよびイタリアにおいて排斥を受け、外国避難する者をわが国受け入れることは、大局よろしくないのみならず、現在事変日中戦争)下にあるわが国では、これらの避難民収容する余地はないのが実情なので、今後はこの種の避難民外部に対しては単に『避難民』の名義とすること。実際ユダヤ人避難民意味する。)のわが国内地本土ならびに植民地への入国好ましくない。(ただし、通過この限りでない。)」とすることで意見一致した。】 — 近衛外務大臣から在外公館長への訓令猶太避難民ノ入國ニ關スル件」(昭和13年10月7日付) 上掲の訓命では、ユダヤ人差別外部露見する海外から非難を受けることは必至であるため、「外部ニ對シテハ單ニ『避難民』ノ名義トスルコト」と明記され、わざわざ内訓外部公表しないことを念を押したユダヤ避難民日本に来ることを断念するように仕向けるよう指示した機密命令であり、日本政府は、いわゆる五相会議決定ユダヤ人保護案を表面示しながら、裏ではユダヤ人差別指示する二重外交展開していたのである

※この「ソ連による赴任拒絶・第二次世界大戦直前のヨーロッパへ」の解説は、「杉原千畝」の解説の一部です。
「ソ連による赴任拒絶・第二次世界大戦直前のヨーロッパへ」を含む「杉原千畝」の記事については、「杉原千畝」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへ」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへ」の関連用語

ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへのお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ソ連による赴任拒絶第二次世界大戦直前のヨーロッパへのページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの杉原千畝 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS