ソ連による統治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 03:21 UTC 版)
1945年9月1日、大日本帝国に宣戦布告を行っていたソ連軍が国後島に上陸し、古釜布も占領した。既に大日本帝国はポツダム宣言の受諾を決定し通告していたが、調印はまだ行われておらず、法的には第二次世界大戦の戦闘状態が続いていた。ソ連軍は国後島全島を制圧して軍政の開始を布告し、更に1946年には南樺太・択捉島・色丹島・歯舞群島の旧日本領領域で南サハリン州(南樺太民政署)の成立を1945年9月20日にさかのぼって宣言し、1947年1月2日にはさらにサハリン州の一部とした。日本政府はソ連の処置を認めずに領土返還要求を行ったが、当時は連合国による占領を受けて外交能力を喪失していた事もあって、これは実現しなかった。また、古釜布に在住していた日本人住民は、ソ連軍への恐怖から多くが北海道へ避難し、残った住民も1947年から1948年にかけてソ連政府によって北海道へ追放されたため、古釜布から日本人はいなくなった。この抑留生活で命を落とした者も多く、住民のほとんどは財産を残したまま島を後にした。 その後で、ソ連政府は独ソ戦によって荒廃した自国の西部地域、ロシア西部やウクライナ等からの移民を送り込んだ。移住者には他のソ連国内と比較して2倍以上の賃金を支給したため、定住人口の移住が進んだ。その際、ソ連はかつて日本人が住んでいた海岸地域の北にある高台地域で新たにロシア風の小都市を建設し、日本(北海道)に近すぎる泊ではなく古釜布の新市街をユジノクリリスクと名付け、国後島(ロシア語:クナシル島)の行政中心地とした。ユジノ・クリリスクには行政庁や地区裁判所などが設置され、日本やアメリカ合衆国の侵略から祖国ソ連を守る「国境の島」の中心地となった。島内には新たに空港も整備され、メンデレーエフ空港と名付けられて、港と並ぶ町の玄関口となった。 逆に日本にとっての古釜布は、自国領土を不法占拠し、さらには「仮想敵国」として日本攻撃の危険性を常に秘め、強い警戒を要する共産主義国家・ソ連の最前線拠点ととらえられ、完全に「閉ざされた町」になった。日本は1951年のサンフランシスコ平和条約で独立を回復し、1956年の日ソ共同宣言でソ連との国交も回復したが、日露和親条約の有効性やソ連の対日宣戦の不当性から国後島を含む北方領土の即時返還を訴える日本の要求はソ連側に拒否された。また、ユジノクリリスク港には島の沿岸海域でソ連の国境警備隊に拿捕された日本人漁民が拘束され、没収された日本漁船が朽ちていく様も目撃された。1966年には日本人の元住民による古釜布への墓参団訪問が許されたが、これは非常に特殊かつ限定的な例で、北方領土墓参団の扱いを巡る日ソ両国の対立は根深かったため、古釜布訪問は1970年から1989年まで途絶えていた。
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