ソ連による再占領
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 14:47 UTC 版)
「リトアニアの歴史」の記事における「ソ連による再占領」の解説
1944年にはソ連はドイツを破り、リトアニアを再占領した。1945年のヤルタ会談とポツダム会談で英米にリトアニアがソビエト連邦に加盟する共和国であることを認めさせた。スターリンはリトアニア人以外の人々、特にロシア人のリトアニア入植を進め、工業化を図った。 スターリンは、リトアニア人10万8000人を赤軍に動員し、ろくに訓練もしないまま、ラトヴィアの戦闘地域に送り、数千人が死亡した。さらに、ヴィルニュスの住民7万人がナチス協力者として処刑された。その大半はユダヤ人だった。1万2000人がドイツに送られ強制労働させられた。1945-1948年までにポーランド人19万7200人をポーランドに強制送還した。NKVDは1944年7月から12月までに2489人を殺害し、10万人が弾圧された。シベリアの強制収容所へ1948年に4万人、1949年に3万3500人、1951年に2万357人が追放された。公式統計でも、スターリン政権下の1942年から1952年にかけて12万人以上のリトアニア人が追放された。のちにリトアニアの成人の3分の1にあたる45万6000人がソビエトによるテロルの犠牲となったことがわかっている。33万2000人がグラーグに収容され、それと別に2万6500人がリトアニアで殺害された。 一方でソビエトに対する抵抗活動も続き、1944-46年に約3万人のパルチザンが活動し、親ソ連の罪での処刑も行なった。1946-48年には、ソ連との戦争で1万人のパルチザンが死亡し、1944-53年までに2万人のパルチザンが殺害された。他方、ソビエト兵1万2921人、共産党員や活動家ら2619人がパルチザンに殺害された。最後のパルチザンが戦闘死したのは1965年になってのことである。 スターリン死後、50年代から60年代にかけて6万人の追放者と2万人の政治犯がリトアニアに帰国したが、リトアニア共産党はナショナリズムが高まることをおそれて厳しく監視し、時には反ソビエト活動をしていると非難され、1967年から1975年までに反ソビエト活動の罪で1583人のリトアニア人が有罪とされた。
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