ソ連によるバルト三国占領概観
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/16 05:40 UTC 版)
「エストニアの歴史」の記事における「ソ連によるバルト三国占領概観」の解説
詳細は「バルト諸国占領」を参照 1939年に第二次世界大戦が勃発すると、「独ソ不可侵条約」及びその「秘密議定書」に基づき、ドイツとソ連がポーランドに侵攻した。領土的野心のあったスターリンはエストニア、ラトビア、リトアニアのいわゆる「バルト三国」に食指を動かし、翌年6月に外相モロトフを派遣し、新政府樹立の最後通牒を突きつけた。ドイツからの支援も受けられないエストニアは他の2国とともに1940年6月17日にソ連軍の進駐および新政府の樹立を以って、ソ連に編入され、多数の住民が逮捕或いはシベリア送りにされた。独ソ戦に対しては進攻するドイツ軍を歓迎した者もおり、武装親衛隊の支援によるソ連へのゲリラ活動(森の兄弟)を行い、ソ連側もエストニア人部隊を送るなど代理戦争で混乱を極めた。
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