ソビエト連邦占領下とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ソビエト連邦占領下の意味・解説 

ソビエト連邦占領下

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/05 18:38 UTC 版)

ナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領」の記事における「ソビエト連邦占領下」の解説

ポーランド侵攻作戦終了するまでに、ソビエト連邦ポーランド領の52.1%(およそ20万平キロメートル)を占領した。そこには1370万人住んでいた。諸説あるが、この地域における民族構成次のようなものであった38% ポーランド人(約510万人) 37% ウクライナ人 14.5% ベラルーシ人 8.4% ユダヤ人 0.9% ロシア人 0.6% ドイツ人 さらにドイツ占領され地域からの難民336千人おり、その多く(198千人)がユダヤ人だった。ソ連占領され地域リトアニア譲られヴィルノヴィリニュス地方除いてソ連本国組み入れられた。しかしリトアニアソ連の一共和国となるとヴィルノ地方ソ連となったドイツ人人種差別を基に自らの政策推し進めたのに対しソ連当局階級闘争に関するスローガンプロレタリア独裁(実のところソ連ではこれらの用語はスターリン主義社会ソヴィエト化を意味していた)を用いたポーランド東部領土征服するとまもなくソ連当局はこの新しく獲得した地域ソヴィエト運動を開始した。ポーランド軍最後部隊降伏して週間経っていない1939年10月22日ソ連は「西ベラルーシ」と「西ウクライナそれぞれで、モスクワコントロールされ自演ソヴィエト最高会議選挙実施した。これらの自演選挙ソ連によるポーランド領土併合正当化するものであった。 それに引き続き解体されポーランド国家あらゆる組織次々と廃止され、主に新しくやってきたロシア人(またはまれにウクライナ人)指導者によって再建された。リヴィウ大学その他の学校多くはまもなく再開されたが、それらは全てソ連機関として新しく発足したのだったルヴォフ大学ソ連高等教育法規集に則って改組された。ロシア語講座文学講座開かれたが、同時にマルクス・レーニン主義弁証法的唯物論史的唯物論講座開かれた。これらはソ連イデオロギー強化する目的があった。ポーランド文学ポーランド語研究講座ソ連当局によって解散させられた。ハリコフ大学キエフ大学からやってきた45人が新教授団に任命された。1940年1月15日ルヴォフ大学再開されソ連カリキュラム沿って講義始まった。 それと同時にソ連当局ポーランド国家ポーランド文化全般に関わるものを取り除くことでポーランドによって最近まで行われていたこの地域管理痕跡消し去ろうとした。1939年12月21日ポーランド通貨ズウォティ流通停止され新しく導入されルーブルとの両替ができなくなった。このことは、この地域住民全て一夜のうちに全ての貯金失ったことを意味する全てのマスメディアモスクワコントロールされるようになったソ連による占領では恐怖政治によって警察国家のような政体実施された。ポーランドの政党組織全て解散させられソビエト連邦共産党とその下部組織だけが存在許された。 組織的な宗教全て迫害された。全ての企業国家収用され、農業集団化された。 ソ連法律によると、併合され地域住民全て「旧ポーランド市民呼ばれソ連市民権自動的に与えられた。しかし実際に市民権与えに際して個人同意必要だったので、住民たちはそういった同意をするよう強い圧力かけられドイツ占領され地域からやってきた難民の中でこれに同意しない者はポーランドドイツ管理地域送還する脅された。 それに加えてソ連は、過去にあったポーランド人と他の人々との民族的緊張利用し少数民族対し20年にわたるポーランド支配下苦しんだ不正を正すのだ」と呼びかけて、ポーランド人対す暴力刺激し後押しした戦前ポーランド労働者少数民族からの搾取から成り立っていた資本主義国家なのだと描写された。ソ連ポーランド分割正当化として、ポーランド第二共和国には非ポーランド人対す不公平な扱いがあったのだと宣伝したソ連当局暴徒公然とそそのかして殺人強盗やらせたソ連鼓舞されテロ活動犠牲者の数は現在でも不明である。 当初ソ連支配人々支持受けた。それは特にこの地域住んでいた非ポーランド人からで、戦間期ポーランド民族主義的政策服従させられていたことでポーランド制度時にはポーランド人一般に対して強い憤り感じていた。ユダヤ人や、または特に西ウクライナウクライナ人住民多く当初ウクライナソ連併合歓迎したウクライナ人1919年民族自決のもと西ウクライナ人民共和国樹立目指したが、その試み同じくオーストリア・ハンガリー帝国から独立した同胞であったはずのポーランド1918年から1919年にかけて行われたポーランド・ウクライナ戦争敗北によって実現されなかった。ウクライナ内戦期ウクライナ三分された。ウクライナの独立訴え中部ウクライナロシア人ユダヤ人統率されロシア合同したウクライナウクライナ・ソビエト戦争行ったのに対し西ウクライナポーランドへの憎悪から赤軍合同して赤ウクライナ・ガリツィア軍を組織した。しかし西ウクライナ裏切られ赤軍敗色濃くなったポーランド・ソビエト戦争西ウクライナポーランド領化承認でうまく収めた一方ウクライナ人民共和国クリミア半島ロシア軍対す赤軍勝利により、西ウクライナを除くウクライナボリシェヴィキの強い影響下に置かれることになった1922年ウクライナソ連併合農地改革によって強化された。農地改革では大地主のみならず農民の殆どは「クラーク」と呼ばれて土地取り上げられ、その土地貧農分配された。 しかし間もなくソ連当局強制的に土地集団農場化する運動始めた。これによって農地改革から得ていた利益が無になった農民コルホーズ参加したくなかったし、国家課した収穫割り当て満たすために作物をただで手放すこともしたくなかった。それと同時に、この地域にはとりわけユダヤ人若者、またはより少数であるがウクライナ人農民など、いわゆる戦前ポーランド市民多数存在しており、ソ連権力自分たちの民族的文化的集団の外での社会活動始めるためのよい機会だと感じていた者が多かったが、ソ連による抑圧全ての集団に対してそれらの政治的スタンスに関係なく課せられることが明らかになっていくにつれてそういった社会活動への意欲失われていった内部人民委員部(NKVD)や他のソ連機関始めた恐怖政治支配社会ソヴィエト化のをなしていた。ポーランド侵攻その後捕らえられ25万人ポーランド人捕虜はこの新秩序最初の犠牲者となったソ連戦時国際法に関する条約には一切署名していなかったので、ポーランド人捕虜たちは戦争捕虜としての地位否定されその代わり将校のほとんどと多く一般兵士は殺害された(カティンの森事件参照)か、グラグ送られた。 民間人に対して同様の政策適用された。ソ連当局戦前ポーランドへの奉仕を「革命対する罪」とか「反革命的活動」と看做しポーランド知識層、政治家公務員科学者多数逮捕し始めた一般の人々でも、ソ連支配対す脅威となる意思示した疑われた者は逮捕された。ポーランド知識層で逮捕され人々中には、レオン・コズウォフスキ(Leon Kozłowski)、アレクサンデル・プリストル(Aleksander Prystor)、スタニスワフ・グラブスキ(Stanisław Grabski)、スタニスワフ・グウォンビンスキ(Stanisław Głąbiński)、ステファン・バチェフスキ(Stefan Baczewski)がいた。逮捕当初政治的敵対者となる可能性がある者を対象としていたが、1940年1月までに内部人民委員部(NKVD)はこの逮捕方針ポーランド人共産主義者社会主義者を含む潜在的な同盟者にまで拡大していった。これによって逮捕された者には、ヴウァディスワフ・ブロニェフスキ(Władysław Broniewski)、アレクサンデル・ヴァット(Aleksander Wat)、タデウシュ・ペイペル(Tadeusz Peiper)、レオポルト・レヴィン(Leopold Lewin)、アナトル・ステルン(Anatol Stern)、テオドル・パルニツキ(Teodor Parnicki)、マリアン・チュフノフスキ(Marian Czuchnowski)など多数人々がいる。 拘置所反ソ活動疑われ人々ですぐに一杯となった。そのため内務人民委員部(NKVD)はさらに多数臨時拘置所占領地域のほとんど全ての街に開設しなければならなかった。大波のような大規模な逮捕結果として広範な職種人々(たとえばクラーク呼ばれる富農ポーランド公務員森林管理員、大学教授、オサドニク(Osadnictwo wojskowe)と呼ばれる退役軍人東部辺境開拓者)のグラグへの移送つながった総計50万人大きく4回に分けて東へ送られた。ノーマン・デイヴィス(Norman Davies)によると、1941年ロンドンポーランド政府ソ連の間でシコルスキ・マイスキー協定(Układ Sikorski-Majski)が署名されるまでに、流刑されたうちのおよそ半分命を落とした。 この協定によってポーランド主権速やかに回復されたが、実際のところポーランドソ連強硬な支配下とどまったままにあり、ソ連軍そのまま非公式に駐留続けていた。その後1952年ポーランド人民共和国親ソ政府によってまでソ連軍ポーランド駐留続行が公式に認められた。ソ連軍ポーランドから撤退したのは1990年代になってからのことである。当時その後ポーランド起きた一連の出来事は現在でもポーランドロシアの関係の障害となって立ちはだかっている。戦争中略奪され財産請求や、ソ連時代犯罪対す謝罪要求は、無視されるか、または「我々はポーランドナチズムから解放したのだから感謝しろ」というクレムリン歴史観によるぞんざいな反応刺激している。

※この「ソビエト連邦占領下」の解説は、「ナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領」の解説の一部です。
「ソビエト連邦占領下」を含む「ナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領」の記事については、「ナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ソビエト連邦占領下」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ソビエト連邦占領下」の関連用語

ソビエト連邦占領下のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ソビエト連邦占領下のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのナチス・ドイツとソビエト連邦によるポーランド占領 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS