ソビエト連邦侵攻への抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 17:42 UTC 版)
「イスマーイール・ハーン」の記事における「ソビエト連邦侵攻への抵抗」の解説
1979年3月、アフガニスタン西部の都市ヘラートの陸軍少佐であったイスマーイール・ハーンは、ヘラートの守備隊を率いてロシア人政治顧問に対する反乱を起こした。タラキーの共産主義政権は直ちにこれに反応し、ソ連から提供された弾薬によってヘラート市を徹底的に破壊、1週間足らずで24,000人の民間人を殺傷した。この争乱は全国に拡大し、結果として1979年12月のソ連によるアフガニスタン侵攻の口実を与えることになった。イスマーイール・ハーンは地方に潜伏し、ヘラート市民の広範な支持を得て、反乱軍の組織を開始した。ソ連・アフガン戦争の過程で、ハーンはブルハーヌッディーン・ラッバーニーのイスラム協会の西部方面司令官となり、アフマド・シャー・マスードらと並んでもっとも高名なムジャーヒディーン司令官となった。1992年、ソ連の撤退から2年後、ムジャーヒディーンはヘラートを攻略し、現地部族と野戦指揮官の集会 (ジルガ) によって、イスマーイール・ハーンはヘラートの知事に選出された。
※この「ソビエト連邦侵攻への抵抗」の解説は、「イスマーイール・ハーン」の解説の一部です。
「ソビエト連邦侵攻への抵抗」を含む「イスマーイール・ハーン」の記事については、「イスマーイール・ハーン」の概要を参照ください。
- ソビエト連邦侵攻への抵抗のページへのリンク