アフリカ人に対するアラブ人の見方
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/04 02:59 UTC 版)
「アラブ人の奴隷貿易」の記事における「アフリカ人に対するアラブ人の見方」の解説
Template:Over-quotation' イスラームと奴隷制も参照 コーランにおいては、預言者ムハンマドや、ウラマー(イスラーム法学者)や(イスラーム神学en:Islamic theologyの)神学者の圧倒的多数が、人類は単一の起源を持つと主張し、特定の民族が他に優越するという考えを拒絶している。ハディースではこう述べている。 アラブ人の非アラブ人への優越、非アラブ人のアラブ人への優越、そして白人の黒人への優越、そして黒人の白人への優越も敬虔さによるもの以外は存在しない。 —預言者ムハンマド しかしながら、後には民族的偏見が征服活動や奴隷貿易といったいくつかの理由でアラブ人の間に発展した。アリストテレスの特定の民族集団は本質的に奴隷だという考え方の影響が、ファーラービーやイブン・スィーナーといったイスラーム哲学者によって、特にトルコ人や黒人にむけて、繰り返された。そして初期ゲオーニーム学派の、人類を3人のノアの息子の子孫に分け、バビロニア・タルムードの「ハムの子孫は黒人であることで呪われており、それはハムが罪深き男でその子孫も堕落していることを現す」という主張に基づく考えの影響もある。しかし、アラブ人エリートの間の民族的偏見は肌の色が濃い人々に限られず、(ペルシャ人やトルコ人やヨーロッパ人を含む)肌の色が薄い「赤らんだ人々」にも向けられ、アラブ人は自らを「浅黒い人々」と呼んだ。アラブ人アイデンティティen:Arab nationalismという考えは近代まで存在しなかった。アーノルド・J・トインビーによれば、「イスラーム教徒間の人種意識の絶滅は、イスラームの際立った達成のひとつであり、現代世界では、ちょうどこのイスラーム的美徳の宣伝が焦眉の急である。」という。 九世紀の有名なイスラーム教徒の作家のアル・ジャーヒズは、アフリカ系アラブ人(en:Afro-Arab)でザンジュ 奴隷の孫であり、「Risalat mufakharat al-Sudan 'ala al-bidan」("黒人の白人の上の優越に関する報告")という本を書き、黒人についてこう主張している。 ..(黒人は)メッカまでものアラブ人の国を征服し彼らを支配したことがある。我らは ズー・ヌワース[[:en:Dhu Nuwas]] (イエメンのユダヤ教徒の王)を打ち負かし、ヒムヤルen:Himyar王国の王子たちを殺した。しかし汝ら白人 は我らの国を征服したことはない。 我が民ゼング(Zengh、黒人)はユーフラテスで4度反乱を起こし、その住人を家から追い出し、Oballah を血の海とした。 —en:Joel Augustus Rogers and en:John Henrik Clarke、World's Great Men of Color そしてこうも述べた。 黒人は身体的にどの人々よりも力強い。彼らの一人は、何人もの白人が持ち上げたり重い石を持ち上げ、運べないような荷物を運ぶことが出来る。[...]彼らは、その高貴さと邪悪さのなさの証として、勇敢で強く寛大である。 —en:Yosef Ben-Jochannan、African Origins of Major Western Religions アル=ジャーヒズは、Kitab al-Bukhala("けちんぼどもの書")でこう述べている。 "我々はザンジュ(黒人)が、最も知能と洞察力に欠ける人間であり、行動の結果を最も理解できないことを知っている。" しかしながら、アル=ジャーヒズの批判は、ザンジュに限られ黒人全てに向けられたものではなく、彼の故郷で起きたザンジュの乱を受けてのものらしい。 この感情は中世のアラブ人作者のムカッダスィー (en:Al-Muqaddasi) 著作のKitab al-Bad' wah-tarikh(『原初と歴史の書』) 第四巻の次の文書に反響している。 ザンジュについて言えば、彼らは黒い皮膚、平らな鼻、縮れた髪を持つ、理解力や知能に乏しい人々である。 アラブ人博学者のディマシュキーen:Ibn al-Nafis(イブン・アン=ナフィース)も、(当時の地理概念としての)スーダンとザンジュ海岸の住人について知性に「暗い」とし、こう述べる。 ...彼らの心性に見出される倫理的性格は、動物に自然に見出される本能的性格に近い。 —Andrew Reid and Paul J. Lane、African Historical Archaeologies 14世紀には、サブサハラアフリカからの圧倒的な数の奴隷によって、黒人への偏見が引き起こされ、幾人かのアラブ人の歴史家(イスラーム教徒の歴史家の一覧en:List of Muslim historians参照)や地理学者の著作に、それが見られるようになった。例えば、エジプト人歴史家のAl-Abshibi (1388–1446) はこう記述する。「[黒人]奴隷が満腹の時には密通し、空腹なときには盗むという。」 この時代のアラブ人学者や地理学者の誤訳は、多くが18世紀や19世紀になるまで普及しなかったある種の人種差別的態度を何世紀も前に書かれた文章に結びつけられる。15世紀のアラブ世界にもひどく黒い外観に対する差別はあったが、それは後の世界のような烙印ではなかった。例えばイブン・ハルドゥーンの以前の翻訳は、1841年に書かれた「アラブ人の調査し発見した黒人の地」The Negroland of the Arabs Examined and Explained で後期植民地主義のプロパガンダの一部ではなく、一般的に積極的な視点でのアフリカ黒人を見せている以前の翻訳の抜粋を見せている。14世紀の北アフリカの、アラブ人社会学者のイブン・ハルドゥーンは「歴史序説」でこう述べている。 (アラブ人による)西の征服が終了した時、商人たちは奥地に入り始めた。その時、西の海まで支配を拡張したガーナのように強大な黒人国家を彼らは見なかった。「ルッジェーロの書」の著者(イドリースィー)en:Tabula Rogerianaや「諸道と諸王国の書」の著者(バクリー)によれば、王の宮廷はガーナの町に維持されていた。そして2つに分割されてナイル川両岸に立ち、世界で最も大きく人口の多い都市のなかに位置付けられた。ガーナの人々は東に隣人を持ち、歴史家たちによれば、それは Susuと呼ばれていた。そしてマリと呼ばれるものもあった。また Kaukau として知られる者もあった。違う綴方を好み、Kagho と書くことを好む物も入る。最後に述べた国家はテクルールと呼ばれる人々に受け継がれた。ガーナの人々は、時の流れとともに衰退し、北に隣接するムラッシムーン Molaththemun(覆った人々;ムラービト朝)に支配または吸収された。 このベルベル人国家は彼らに攻撃し、彼らの領地を奪い、ムハンマドの宗教を受け入れるよう強要した。ガーナの人々は後の時代に、近隣の黒人国家である Susu に侵略され、絶滅したかまたは他の黒人国家と混ざり合った。 —William Desborough Cooley、The Negroland of the Arabs Examined and Explained イブン・ハルドゥーンはガーナの没落とムラービト朝の勃興の間の連関を示唆している。しかしムラービト朝が実際にガーナを征服したという証拠は少ない。ムラービト朝と同盟し最終的に吸収されたテクルールen:Tekrurとの並行する抗争はしかしあった。イブン・ハルドゥーンはあるアフリカ黒人部族の「奇妙な風習や慣習」をサブサハラアフリカの高い気温に帰し、血統の呪いのせいではないことを明らかにし、ハム人理論を神話として捨てた。 彼のアラブ人に対する批判的な態度により、学者のMohammad A. Enanは、イブン・ハルドゥーンは社会的地位を得るためにアラブ人のふりをしたベルベル人だったのかもしれないと示唆した。しかしMuhammad Hozienはこの主張に反論して、イブン・ハルドゥーンやその家族はベルベル人が権力にあった時もベルベル人であると主張したことはないと述べた。 14世紀の北アフリカのベルベル人地理学者にして旅行家であるイブン・バットゥータは、西スーダンへの旅で、折にふれる人生の諸相に感動した。バットゥータはのちにザンジュの住人が住む東アフリカを訪れ、黒人により好感を持っている。 我々は ...海にそってクルワ(タンザニアのキルワ王国en:Kilwa Sultanate)の町へと旅した。...その人々の殆どはZunujであり、非常に黒い。...クルワの町は最も美しく最も優雅に建てられた町の一つである。... 彼らの最上の美徳は宗教と公正であり、彼らはシャーフィイー学派である。 [ケニアのモンバサの人々は]信心深い人々で、信頼できて公正である。彼らのモスクは木で出来ており、巧妙に建てられている。 イブン・バットゥータは、1352年に訪れた西アフリカのマリ王国の様子にも感激している。 ...(そこの人々は)称賛すべき素質を持っている。彼らが不公平であることはまれで、他の人々より大きな不正に対する憎悪を持っている。彼らの国には完全な安全がある。旅行者であれ住人であれ強盗や暴力的な人々を恐れることはない。 —Ibn Battuta、Travels in Asia and Africa 1325-1354 加えて、彼は以下の様なマリ帝国の人々に対して次のような好意的なコメントを多く書いている。 私はマリのカーディー(法官)と会った。... 彼は黒人で、巡礼の途中であり、優れた性格の素質を持つ高貴な人間であった。... 私は、高貴な黒人で指導者である通訳のDughaに会った。... 彼らは[客人としての]私に対する義務を最も完璧に果たした。神が彼らの 善行を嘉せられ、報いんことを! [マリの黒人の]他の良い素質は偉大なコーランの暗記への関心である。...ある日、私は良い服を着て足に重い鎖をつけたハンサムな若者とすれ違った。私はともに居た男に「この若者は何をした?誰かを殺したのか?」と言った。若者は私の感想を聞き 笑った。「コーランを暗記するために彼は鎖をつけているのだ。」と言われた。 [西アフリカのIwalatan(ウアラタ)の人々は] 私に気前よく、そして楽しませてくれた。...彼らの女性について言えば、非常に美しく、男性よりも重要だ。... イブン・バットゥータの意見は、大いに多くの黒人に関するアラブ人作者のコメントと対照的である。しかし、多くの誇張された評価が噂に基づいて記され、アフリカ人自身によって自身の国や経済を孤立したままにするため継続させられた。さらにイブン・バットゥータは、東西アフリカ両方を実際旅行したとしてここで言及される唯一の中世イスラーム教徒学者である。
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