アフリカ中心主義者の仮説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/11 03:37 UTC 版)
「アブバカリ2世」の記事における「アフリカ中心主義者の仮説」の解説
マリの劇作家ジャワラの意見は、アブバカリの船団がガンビアを発ち、大西洋を渡ってブラジルの沿岸、レシフェに着き、マリ帝国において金を豊富に産出した2ヶ所の地名、ブーレ(Buré)とバンブク(Bambuk)を記念して、ペルナンブーコ(Pernambuco)と名付けたというものである。 イヴァン・ヴァン・セルティマ(Ivan Van Sertima)やマーク・ハイマン(Mark Hyman)のようなアフロセントリズム派の著述家は、コロンブス自身がカリブ海地域で「黒人」に出会ったと何度も報告している一方で、コロンブスとその同時代人がアメリカ先住民の肌の色をよく「ムーア人」に例えていることを頻繁に指摘する。ムーア人は北アフリカに住む人々を意味する。コロンブスが明瞭に述べていることに鑑みると、彼は自分の「発見した」土地では「ギニアにいるような黒人」に一度も出会わなかった。スペインの歴史家、フランシスコ・ロペス・デ・ゴマラ(スペイン語版)とアングレリーアの殉教者ペドロ(ドイツ語版)は、アメリカ大陸に自分自身で足を踏み入れた経験は一度もなかったのであるが、新世界の探検と征服に関する年代記を著している。その中には、コンキスタドールのバスコ・ヌーニェス・デ・バルボアが現代のパナマにあたる地方で、一度も黒人に出会わなかったという記述があるが、この記述には、新大陸の入植地には(ムーア人を含まない)「黒人」だけが住んでいるものという通念が前提にある。年代記作家による記述がヴァン・セルティマらにより信頼のおける目撃情報であると見なされたとしても、そこには伝聞による二次的な記載があるにすぎない。 1950年代以来、考古学者のメルヴィン・ジェフリーズ(Mervyn D. W. Jeffreys)が、マンデの航海者たちにより14世紀の初め頃にアメリカから西アフリカにトウモロコシが持ち込まれたという説を発表して、このアフロセントリズム的解釈を擁護している。この説の証拠として彼は、アフリカの神話と、中世に作られた土器に見られる表現とを提示する。彼によれば、トウモロコシは近代初期には既に主要作物とされており、1500年以降にヨーロッパ人により導入されただけでは、これほどまでに急速に栽培が広まるはずがない、という。この説に対する反論としては、ジェフリーズが挙げた言語資料が十分な証拠のあるものではないこと、また、トウモロコシとモロコシ(ソルガム。ドイツ語では「ムーア人の稗」又は「黒人の稗」とも呼ばれる。)との区別が明らかにされていないことを指摘するものがある。
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