アフリカーナー民族主義者の新国旗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 03:56 UTC 版)
「南アフリカの国旗 (1928年-1994年)」の記事における「アフリカーナー民族主義者の新国旗」の解説
これらの植民地をまとめて1910年に成立した自治領・南アフリカ連邦では、自治領旗はユニオンジャックであったが、非公式にイギリスのレッド・エンサインに自治領紋章を入れた旗を事実上の国旗代わりに使っていた。しかし支配階級だったイギリス系人にはユニオンジャック以外の旗を使うことが好まれず、白人の多数派かつ下層階級となっていたアフリカーナーにはユニオンジャックが旗に入っていること自体受け入れがたいことであった。1924年にアフリカーナーの農民や労働者を基盤とした国民党が総選挙で勝利しJ・B・M・ヘルツォーク政権が誕生すると、翌1925年にアフリカーナーの要望をもとに新国旗制定法案を議会に上程した。イギリス系人はユニオンジャックを国旗から取り除こうというこの法案に反対し、ナタール州では連邦脱退運動も発生した。3年にわたる激しい争いの末、1928年に妥協として正式な旗が定められた。 この旗は、オランダがウィレム1世のもとでの対スペイン独立戦争で掲げて戦った「プリンスの旗」(Prinsenvlag, オレンジ・白・青の三色旗)をもとにしており、これはアフリカーナーの希望に沿うものだった。一方、旗の中央の白い部分には、左からケープ植民地およびナタール植民地のユニオンジャック、オレンジ自由国の国旗(縦向き)、トランスヴァール共和国の国旗を小さく並べてその対等性を示していた。ユニオンジャックが三つの旗のうち一番旗竿側の良い位置を占めたことはイギリス系人に対する譲歩だった。 1927年、南アフリカ連邦ではユニオンジャックと新しい旗がともに国旗の待遇を受けるという国旗・国籍法案が上程され、1928年に発効し、ケープタウンの議会とプレトリアの政府庁舎に両方の旗が掲げられた。アフリカーナーは新しい旗を「オレンジ・白・青」(オランイェ・ブランイェ・ブラウ、Oranje, Blanje, Blou)と呼んだ。しかしユニオンジャックを国旗から除去することができなかった内務大臣のダニエル・フランソワ・マランは、旗の中央の小さな三つの旗を「いつの日か剥がれ落ちるであろうカサブタ」と述べている。
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