軍人への道と自由将校団の結成とは? わかりやすく解説

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軍人への道と自由将校団の結成

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 14:21 UTC 版)

ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事における「軍人への道と自由将校団の結成」の解説

1936年これまで上流階級しか通れなかった陸軍士官学校英語版)に新たに中流層以下の入学設けられ、その第1期生を受ける。しかし、既存軍人たち身分意識縁故主義依然として根強く親族軍人がいない事を面接官より嘲笑され面接落とされてしまう。続いて警察学校を受けるも学生運動参加記録残っていたため拒否される仕方なくエジプト大学法学部入学するが、士官学校に再挑戦すべく1学期終了後退学した士官学校に入るためには有力者コネが必要と考えたナセルは、大学選定委員会の委員長国防次官英語版)イブラヒム・カーリー・パシャ少将との面会申し出た当時学生に過ぎないナセルになぜこのような事が可能だったかについては、ナセル本人直訴した、もしくはコネ持っていた叔父ないし祖父仲介があった、などの説がある。コネがない事で不当に取り扱わないほしいと懇願し入学志望動機愛国情熱込めて訴えナーセルに、カーリー・パシャは助力確約し、自ら面接官務めたナセル倍率100倍にも上った入学試験突破し3月17日晴れて士官学校2期生として入学かなった同期には、のちの第一副大統領国防相となるアブドルハキーム・アーメル第三大統領となるアンワル・アッ=サダト1期生とも)、首相となるザカリア・ムヒエディン(英語版)などのちの自由将校団メンバーのほか、のち俳優となるアフメド・マザール(英語版)がいる。 在学中それまで落第生であったナセル水を得た魚のようにたちまち頭角現し翌年には代表幹事となる。 本来、士官学校の期間は3年定められていたが、国内外情勢鑑みて士官速成配置急務であったことから1938年6月1日、わずか16か月繰り上げ卒業させられ歩兵少尉任官第3旅団附となりアシュート近郊のマンカバド(英語版)に赴任した。ここでナセルは、辺境勤務堕落してアルコールギャンブルにおぼれろくに訓練指導出来ず、その上エジプト人には差別意識あらわにする英軍将校たちと隣り合わせとなり、イギリスへ憎悪強めていく。またこの頃アーメルサダト、あるいはムヒエディンと初め会合開き国土蔓延する腐敗王政打倒誓い合ったサダト後年熱意にあふれ、純粋かつ公平性を持つナセル次第グループのリーダー存在になった回顧している。1940年4月中尉昇進するが、上官との対立勤務評定低さから僻地左遷され可能性悟ったナセルは、僻地とされていた英・エジプト共同英埃領スーダンハルツームでの勤務を自ら申し出アメルとともに同地歩兵第1大隊赴任した1941年末、エル・アラメイン前線付近イギリス軍大隊編入ナセルアーメル僻地にいる間、通信部隊長としてカイロに留まっていサダトは、地下組織育成いそしんでいた。当時反英感情反動からエジプト世論は親独に傾倒しつつあり、カイロアレクサンドリアなどではロンメル歓迎するデモが行われたこともあった。1941年3月末、イラクでラシード・アリー・アッ=ガイラーニー(英語版)のクーデター英語版)が失敗したと知るや、一部将校中にはエジプトでもクーデター起こそうとする機運高まりつつあった。そんな中ドイツ軍カイロに迫る1942年2月、駐エジプト大使マイルズ・ランプソンが宮殿英軍包囲させ、ファールーク1世反英政権解体を迫るという事件が起こりエジプト反英感情頂点達したナセル外国圧力屈した自軍不甲斐なさを非常に恥じ英国呪った。それから間もなくスーダン勤務に戻るが、エジプト解放の機は熟した思ったナセルは、将校クラブのあったゲズィーラ島のザマーレク(英語版)でアンワル・アッ=サーダートと共にドイツ軍エジプト侵攻した時と同時に反英軍事クーデター起こしナハスワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した。だが、接触していたイギリス軍将校扮するドイツ諜報員サラム作戦英語版))が逮捕され自白したことでサーダート逮捕されエル・アラメインの戦いドイツ軍敗北したため計画頓挫する。同年9月9日大尉昇進とともに内地勤務転じる1943年5月2月7日とも)、士官学校教官1947年9月3日国連パレスチナ特別委員会パレスチナ分割提案提出した直後密かに秘密組織会合開きパレスチナ支援決める。その翌日ゼイトゥーン英語版)のアミーン・フサイニー訪ね義勇兵らの指導者となる事を願い出たが、フサイニーエジプト政府許可必要だと言った数日後フサイニー訪ねるも、政府からの許可下りなかったと告げられる。しかし組織一員である砲兵将校のカマル・エル=ディン・フセイン(英語版)がユダヤ人入植地への砲撃参加したほか、空軍のアブドゥル・ラティフ・ボグダーディ(英語版)とハッサン・イブラヒム(英語版)は支援のため戦闘機ダマスカスまで独断飛ばそうともしている(シリアからの要請信号がなかったため不発に終わる)。 1948年イスラエル建国契機第一次中東戦争が始まると、少佐であったナセル第6軍参謀としてアラブ連合軍に従軍する開戦直後腹部銃創負ってエジプト一時帰国したが、1か月回復し戦線復帰ファルージャの戦い勇名をはせ、叙勲を受ける。しかし、軍上部杜撰な指揮劣悪な装備怒り募らせ、「真の戦場はここではなくエジプトにあるのだ」と言ったとされる結局アラブ連合軍はイスラエル敗北しエジプト帰国その後かねてより反英愛国将校らで組織され政治秘密結社自由将校団名乗り、翌1950年には将校団内部革命実行委員会の長に選出され実質的指導者となる。組織存在公然化してもなお秘密保持貫きお互いコードネーム名乗るなどの措置とっていた。ナセル1919年革命指導者ザグルールを名乗った自由将校団勢力拡大を図るナセルは、アジズ・エル・アル=マスリ(英語版)やフアード・サディクと接触するが、いずれも断られた。最終的に第一次中東戦争活躍した将軍ムハンマド・ナギーブ自由将校団首班として迎え軍部での支持拡大進めていった。 自由将校団は、これまでのエジプト独立運動主流だったガンジー式の「消極的抵抗」に代わり積極行動」を掲げており、当初その方法国王側近暗殺路線求めていた。1951年10月11日エジプト政府1936年英埃条約破棄しスエズ運河を完全にイギリスの影響下に置くと、ナセル大々的暗殺キャンペーン実行乗り出す1952年1月、ハッサン・イブラヒムとともに国王側近フセイン・シリ・アメル(英語版)の暗殺実行する翌日失敗判明)。この時、ナセル車で実行部隊搬送請け負っていたが、去り際聞いたアメル家族思しき悲鳴帰宅後も耳から離れず罪悪感苛まれその日は一睡もできなかった。夜が明けるにつれ、ナセル先程まであれほど殺したい思っていたシリ・アメルの事を、次第に助かればよいが、と願うようになったという。以降ナセル積極行動方針改め暗殺ではなく革命求めようになったが、その決起時期54年55年ごろと、漠然としか仮定していなかった。7月半ば将校クラブ執行部国王によって解散命じられ新任国防大臣によって将校らの検挙が始まるとの情報もたらされると、急遽計画の実行前倒した。 1952年7月23日自由将校団クーデター起こして国王ファールーク1世追放し権力を掌握した。翌年には王政廃止し共和政移行したエジプト革命)。ナセル副首相内務大臣就任しナギーブ議長とする革命指導評議会中心メンバーとして実権握った。ジョン・ウォーターバリーは、「ナセルサダトエジプト2つ体制政治経済」で、1950年代ナセル政権下のエジプトは、「重要なアラブ世界における全体的な重みと、それが1950年代社会主義変革向けて動く第三世界一握りの州である」と述べている。

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