軍人への道と自由将校団の結成
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「ガマール・アブドゥル=ナーセル」の記事における「軍人への道と自由将校団の結成」の解説
1936年、これまで上流階級しか通れなかった陸軍士官学校(英語版)に新たに中流層以下の入学枠が設けられ、その第1期生を受ける。しかし、既存の軍人たちの身分意識や縁故主義は依然として根強く、親族に軍人がいない事を面接官より嘲笑され、面接を落とされてしまう。続いて警察学校を受けるも学生運動の参加記録が残っていたため拒否される。仕方なくエジプト大学法学部に入学するが、士官学校に再挑戦すべく1学期終了後退学した。 士官学校に入るためには有力者のコネが必要と考えたナセルは、大学選定委員会の委員長で国防次官(英語版)イブラヒム・カーリー・パシャ少将との面会を申し出た。当時一学生に過ぎないナセルになぜこのような事が可能だったかについては、ナセル本人が直訴した、もしくはコネを持っていた叔父ないし祖父の仲介があった、などの説がある。コネがない事で不当に取り扱わないでほしいと懇願し、入学の志望動機を愛国の情熱を込めて訴えるナーセルに、カーリー・パシャは助力を確約し、自ら面接官を務めた。ナセルは倍率100倍にも上った入学試験を突破し、3月17日、晴れて士官学校2期生として入学がかなった。同期には、のちの第一副大統領や国防相となるアブドルハキーム・アーメル、第三代大統領となるアンワル・アッ=サダト(1期生とも)、首相となるザカリア・ムヒエディン(英語版)などのちの自由将校団メンバーのほか、のち俳優となるアフメド・マザール(英語版)がいる。 在学中、それまで落第生であったナセルは水を得た魚のようにたちまち頭角を現し、翌年には代表幹事となる。 本来、士官学校の期間は3年と定められていたが、国内外の情勢を鑑みて士官の速成配置が急務であったことから1938年6月1日、わずか16か月で繰り上げ卒業させられ、歩兵少尉に任官。第3旅団附となりアシュート近郊のマンカバド(英語版)に赴任した。ここでナセルは、辺境勤務に堕落してアルコールやギャンブルにおぼれろくに訓練も指導も出来ず、その上エジプト人には差別意識をあらわにする英軍将校たちと隣り合わせとなり、イギリスへの憎悪を強めていく。またこの頃、アーメルやサダト、あるいはムヒエディンと初めて会合を開き、国土に蔓延する腐敗と王政の打倒を誓い合った。サダトは後年熱意にあふれ、純粋かつ公平性を持つナセルが次第にグループのリーダー的存在になったと回顧している。1940年4月、中尉に昇進するが、上官との対立や勤務評定の低さから僻地に左遷される可能性を悟ったナセルは、僻地とされていた英・エジプト共同領英埃領スーダンのハルツームでの勤務を自ら申し出、アメルとともに同地の歩兵第1大隊に赴任した。1941年末、エル・アラメインの前線付近のイギリス軍大隊に編入。 ナセルとアーメルが僻地にいる間、通信部隊長としてカイロに留まっていたサダトは、地下組織の育成にいそしんでいた。当時、反英感情の反動からエジプト世論は親独に傾倒しつつあり、カイロやアレクサンドリアなどではロンメルを歓迎するデモが行われたこともあった。1941年3月末、イラクでラシード・アリー・アッ=ガイラーニー(英語版)のクーデター(英語版)が失敗したと知るや、一部の将校の中にはエジプトでもクーデターを起こそうとする機運が高まりつつあった。そんな中、ドイツ軍がカイロに迫る1942年2月、駐エジプト大使マイルズ・ランプソンが宮殿を英軍に包囲させ、ファールーク1世に反英政権の解体を迫るという事件が起こり、エジプトの反英感情は頂点に達した。ナセルも外国の圧力に屈した自軍の不甲斐なさを非常に恥じ、英国を呪った。それから間もなくスーダン勤務に戻るが、エジプト解放の機は熟したと思ったナセルは、将校クラブのあったゲズィーラ島のザマーレク(英語版)でアンワル・アッ=サーダートらと共に、ドイツ軍がエジプトに侵攻した時と同時に反英軍事クーデターを起こし、ナハスのワフド党政権に代わってアリ・マヘルを擁立することを計画した。だが、接触していたイギリス軍将校に扮するドイツの諜報員(サラム作戦(英語版))が逮捕され自白したことでサーダートが逮捕され、エル・アラメインの戦いでドイツ軍が敗北したため計画は頓挫する。同年9月9日、大尉昇進とともに内地勤務に転じる。1943年5月(2月7日とも)、士官学校教官。 1947年9月3日、国連パレスチナ特別委員会がパレスチナ分割提案を提出した直後、密かに秘密組織の会合を開き、パレスチナ支援を決める。その翌日、ゼイトゥーン(英語版)のアミーン・フサイニーを訪ね、義勇兵らの指導者となる事を願い出たが、フサイニーはエジプト政府の許可が必要だと言った。数日後フサイニーを訪ねるも、政府からの許可が下りなかったと告げられる。しかし組織の一員である砲兵将校のカマル・エル=ディン・フセイン(英語版)がユダヤ人入植地への砲撃に参加したほか、空軍のアブドゥル・ラティフ・ボグダーディ(英語版)とハッサン・イブラヒム(英語版)は支援のため戦闘機をダマスカスまで独断で飛ばそうともしている(シリアからの要請信号がなかったため不発に終わる)。 1948年、イスラエルの建国を契機に第一次中東戦争が始まると、少佐であったナセルは第6軍参謀としてアラブ連合軍に従軍する。開戦直後、腹部に銃創を負ってエジプトに一時帰国したが、1か月で回復し戦線に復帰。ファルージャの戦いで勇名をはせ、叙勲を受ける。しかし、軍上部の杜撰な指揮と劣悪な装備に怒りを募らせ、「真の戦場はここではなく、エジプトにあるのだ」と言ったとされる。結局アラブ連合軍はイスラエルに敗北し、エジプトに帰国。その後、かねてより反英愛国の将校らで組織された政治秘密結社を自由将校団と名乗り、翌1950年には将校団内部の革命実行委員会の長に選出され、実質的指導者となる。組織の存在を公然化してもなお秘密保持を貫き、お互いをコードネームで名乗るなどの措置をとっていた。ナセルは1919年革命の指導者ザグルールを名乗った。自由将校団の勢力拡大を図るナセルは、アジズ・エル・アル=マスリ(英語版)やフアード・サディクと接触するが、いずれも断られた。最終的に第一次中東戦争で活躍した将軍ムハンマド・ナギーブを自由将校団の首班として迎え、軍部での支持拡大を進めていった。 自由将校団は、これまでのエジプト独立運動で主流だったガンジー式の「消極的抵抗」に代わり「積極行動」を掲げており、当初その方法を国王や側近の暗殺路線に求めていた。1951年10月11日、エジプト政府が1936年英埃条約を破棄し、スエズ運河を完全にイギリスの影響下に置くと、ナセルは大々的な暗殺キャンペーンの実行に乗り出す。1952年1月、ハッサン・イブラヒムとともに国王の側近フセイン・シリ・アメル(英語版)の暗殺を実行する(翌日失敗と判明)。この時、ナセルは車で実行部隊の搬送を請け負っていたが、去り際に聞いたアメルの家族と思しき悲鳴が帰宅後も耳から離れず、罪悪感に苛まれその日は一睡もできなかった。夜が明けるにつれ、ナセルは先程まであれほど殺したいと思っていたシリ・アメルの事を、次第に助かればよいが、と願うようになったという。以降、ナセルは積極行動の方針を改め、暗殺ではなく革命を求めるようになったが、その決起時期は54年~55年ごろと、漠然としか仮定していなかった。7月半ば、将校クラブの執行部が国王によって解散を命じられ、新任の国防大臣によって将校らの検挙が始まるとの情報がもたらされると、急遽計画の実行を前倒した。 1952年7月23日、自由将校団はクーデターを起こして国王ファールーク1世を追放し、権力を掌握した。翌年には王政を廃止し、共和政に移行した(エジプト革命)。ナセルは副首相兼内務大臣に就任し、ナギーブを議長とする革命指導評議会の中心メンバーとして実権を握った。ジョン・ウォーターバリーは、「ナセルとサダトのエジプト:2つの体制の政治経済」で、1950年代のナセル政権下のエジプトは、「重要なアラブ世界における全体的な重みと、それが1950年代に社会主義の変革に向けて動く第三世界の一握りの州である」と述べている。
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