聖書との関連
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欽定訳聖書のイザヤ書13章21節と34章14節の中で、"satyr"はヘブライ語のセイリム(se'irim)(「毛のあるもの」)を指す言葉として用いられており、ユダヤの民間伝承における荒野に住む魔物ないしは超自然的な存在を意味している。セイリムへ生贄を捧げる儀式があったことを、レビ記17章7節は仄めかしている。それらはアラブ人の古い伝説にあるアザッブ・アル=アカバ(azabb al-akaba、峠の毛むくじゃらの魔物)との関連が考えられる。
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聖書との関連
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「トリスタンとイゾルデ (楽劇)」の記事における「聖書との関連」の解説
『トリスタンとイゾルデ』は、ワーグナーの全作品中で唯一「神」の名が出てこない作品である。しかし、その随所に、聖書に基づく暗喩が登場する。具体的には以下の点である。 第1幕第1場 イゾルデが歌う「主人の怖さ」は、「主の畏れ」(「主を畏れることはあらゆる智慧の発端」)のもじり。 第2幕第1場 イゾルデが歌う「夜になれ(Es werde Nacht)」は、『創世記』の「光あれ(Es werde licht)」のもじり。 第3幕第1場 トリスタンが船に乗って来るイゾルデのことを「歩行する(wandeln)」と表現する。これは『マタイ伝』14の25で、イエスが海の上を歩いて弟子たちのもとに来る場面の暗喩。同様に、「最後の気付け(letzte labung)」は「終油の秘蹟(letzte Ölung)」のもじりである。 トリスタンは第2幕の幕切れでメーロトの剣先に自ら飛び込み、第3幕では傷口を覆った包帯を自分で引きはがすといった行為から自殺願望が認められる。トリスタンは第2幕で自分の故郷を「光の射さない国」、「暗い夜の国」と呼んでおり、ある意味生まれながらにして「死の国」の住人であり、トリスタンにとって愛は死と不可分であった。 このように、「死のうとして死にきれない」点で、トリスタンは『パルジファル』のアンフォルタスと同類であるという推測が成り立つ。事実、1854年の構想段階では、第3幕で聖杯の騎士パルジファルが登場して病床のトリスタンと対面するという場面が含まれており、のちに断念された経緯がある。聖書の暗喩やパルジファル、アンフォルタスとの関連からは、トリスタンの死が単に解決としての死以上のものとして意図されていることを示す。 ワーグナーは作曲当時、ティツィアーノの絵画「聖母昇天図(Assunta)」に強い感銘を受け、「アスンタは聖母ではない。愛の清めを受けたイゾルデだ」と言ったという。この発言は聖母マリアを俗人の域に引き下げる面とともに、逆にイゾルデを聖母の域に引き上げる両面性を持っている。第3幕において、ストーリー上はトリスタンの傷の治療のためにやってくるイゾルデだが、上記の暗喩によってある種の聖性を獲得しており、治療者というだけでなく、恋人に魂の救いをもたらす救済者という性格が付与されているのである。 加えて、音楽上でも第3幕を結ぶロ長調の主和音は、属和音が強調されないために変格終止と見られ、これが宗教音楽や遠い過去を想起させるときに用いられる手法であることから、浄化したイゾルデの最期に宗教的イメージを重ねたものとされる。
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聖書との関連
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詳細は「聖書の説話とクルアーンの関係」「イスラームにおけるイーサー」を参照 聖書とクルアーンは同じくアブラハムの宗教の聖典であるが、例えばクルアーンではイエスの母親マルヤム(マリア)がレビ族のであるハールーン(アロン)の末裔姉妹とされている(クルアーン19章28節)。レビ族のハールーン(アロン)の末裔であるということは、マルヤム(マリア)がレビ族であることを示している。その根拠は新約聖書にも発見でき、ザカリアの妻エリサベツもハールーン(アロン)の末裔であり、エリサベツとマルヤム(マリア)は親族だからである(ルカによる福音書1章36節)ルカによる福音書1章5節には「ユダヤの王ヘロデの世に、アビヤの組の祭司で名をザカリヤという者がいた。その妻はアロン家の娘のひとりで、名をエリサベツといった」とある。マルヤム(マリア)がレビ族であるということは、その子イエスもレビ族であることを示唆している。この点、イエスをユダ族の末裔と考えるキリスト教徒と意見の相違がある。
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聖書との関連
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『ザジ』には、古典やフランス文学の諸作品の引用、民衆歌や映画への言及、自作のパロディなどがちりばめられている。中でも聖書との関連は特徴的である。第1章での目の中のおがくずと丸太の比喩は『ルカによる福音書』からとられており、第16章には『出エジプト記』に現れる植物ヒソップへの言及がある。第14章でガブリエルは観光客や友人たちを前に演説し、『創世記』の知識を披瀝する。そもそもガブリエルは受胎告知の大天使ガブリエルの名前であり、「大ガイド」という彼への形容がこのことを強く示唆している。同じく第14章では、ガブリエルの信奉者たちの中心に幼子ザジが君臨する場面が描かれており、『ルカによる福音書』でエルサレムにやってきた12歳のイエス・キリストが神殿の境内で学者たちの中心に座って「話を聞いたり、質問したり」したことで一座の人々を驚かせた記述を思い起こさせる。イエスのフランス語読み「ジェジュ」と「ザジ」は発音の次元でも響き合っている。このことから、アンリ・ディアマンは「『地下鉄のザジ』―福音書の難解な剽窃か?」と題した論文において、『ザジ』が新約聖書の「モデル小説」であると解釈している。 クノー自身はエッセイ『小説の技法』(1937年)において、自分の作品には厳密な構造や象徴の体系などが隠されていると述べている。とくにイエス・キリストとザジの関係については、クノーの日記に書かれた架空の批評において言及がある。それによれば、幼子ザジ/イエスの冒険は、受難(タクシーでの観光)、復活(蚤の市)、昇天(エッフェル塔)のようにキリストの生涯を反復しているという。
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聖書との関連
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別名であるレシェフという単語は、『詩編』の76章4節、78章48節(火矢と訳される)、『申命記』32章24節(「熱病」と訳される)など旧約聖書にもみられる。 岩波文庫収録のヨブ記の日本語訳を行った関根正雄はヨブ記5章7節にある「レシェフ」を他の言葉に置き換えずにそのまま訳出し、巻末の註釈において上述の異教神として解説を加え、この部分について「恐らく鳥の表象」とし「レシェフの子ら」は顕現したレシェフとしての鳥であると解説している。また、関根の後の並木浩一・勝村弘也訳版でもこの部分を「レシェフの子ら」と訳し、解説では、古代訳で、ここの「上に飛ぶ」を鳥の飛翔であると説明し、レシェフは火炎の神である為熱病を指すこともあり、レシェフの子等は火の粉であるとし、また熱病としては蔓延した状態と説明する。 レシェフは悪魔に属すると言われるが、岩波委員会訳聖書の『雅歌』の解説によれば8章6節の「炎」の原語は「レシェフ」で、口語訳では「そのきらめき」と書かれる次の「最もはげしい炎」の原語は直訳すると「ヤハウェの炎」となる。また、『ハバクク書』3章5節でのレシェフ(熱病 と訳される)の用法は、直訳すると「熱病はその両足とともに」と表現される、「一種の擬神化」という指摘もある使われ方で、さらにこの神の名が、『歴代誌』上の7章25節では人物名としても登場する等、神の側の語、肯定的な表現として使われる事もある。
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