聖書との出会い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/16 17:56 UTC 版)
嘉永6年(1854年)、日米和親条約の締結によって函館と下田が開港され、水や薪の補給が許可されるようになると、外国船が日本に来航するようになった。江戸幕府は外国船の不法上陸を取り締まるために沿岸警備の強化を命じた。長崎は長崎奉行の管轄であったが、佐賀藩などの近隣の藩と提携しており、政矩は佐賀藩10代藩主・鍋島直正の命を受けて長崎に派遣され、長崎奉行の下で警備に従事した。 嘉永7年(1855年)、イギリス国籍の軍艦が長崎港に停泊した。当時、イギリス人の上陸はできなかったので、政矩は佐賀藩士・古川礼之助に軍艦の訪問を命じた。古川は軍艦に訪問した帰りに長崎港に一冊の書物が浮かんでいるのを発見して、それを政矩に届けた。この本を研究しようとした政矩が、長崎奉行所属のオランダ通詞に内容を確認したところ、英語訳聖書であることが判明した。当時、陽明学を学ぶ者は聖書をも学ぼうとする風潮があった。 長崎警備の任期を終え、佐賀藩に帰った政矩は、安政6年(1859年)、家臣の江口梅亭を医学研究のために長崎に派遣した。これには、聖書を研究させるという目的もあった。 安政5年(1858年)に日米修好通商条約が締結され、翌安政6年(1859年)には長崎港を含む四港が開港されて外国人の上陸が許可されるようになった。同年11月、江口は長崎に在住していたオランダ改革派の宣教師グイド・フルベッキに会った。フルベッキは同じくオランダ改革派のジェームス・カーティス・ヘボン宣教師と一緒の船で、滞在していた上海から来日したばかりだった。聖書について質問した江口は、フルベッキから聖書が既に中国語に翻訳されているという情報を得た。分冊で出版されていた新約聖書(ロバート・モリソン訳、1812年刊)、旧約聖書(ウィリアム・ミルン(英語版)訳、1823年)は長崎の出島での交易によって輸入されていたので、江口はすぐに漢訳聖書を入手し、政矩に届けた。 村田は独学で理解しようとしたが、江口は漢訳聖書をよく理解できなかった。そこで政矩は文久2年(1862年)に江口梅亭と本野盛亨(本野周蔵)、実弟の綾部幸熙を長崎に派遣して、フルベッキの下で研究させた。なお、江口は後に医者として活躍したが、生涯洗礼を受けることはなかった。
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