経済と社会
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「ヴェネツィア領モレア」の記事における「経済と社会」の解説
モレア復興のため、他のギリシア各地から土地を与える約束で移民を集めた。これに応じた移民の多くはアッティカから来たが、この地域を含むギリシア中部もモレアと同様に戦争で著しく荒廃していた。他にも、2000人のクレタ人や、カトリック教徒のキオス島民、ヴェネツィア領イオニア諸島の住民や、中にはブルガリアからやってきた移民もいた。またモレアに残った1317人のムスリムがキリスト教に改宗し、土地や商業特権を与えられた。この政策のおかげで、モレアの人口は急速に回復した。マニ半島を除く全土の人口は、1691年の時点で97,118人だったのが翌年には116,000人となり、1700年までに176,844人にまで増加した。また商業特権を与えられた都市が栄えたため、農村から都市への人口流入も発生した。 ヴェネツィア当局は、農業と商業を復活させるために寛大な統治方針を取った。入植した一家族には60ストレンマの農地が与えられ、地域の長老には100ストレンマが配分された。またフランスやイタリアからブドウ産業がもたらされ、外国からのワインには関税がかけられた。これはギリシアのブドウ栽培を復活させ西ヨーロッパにレーズンを輸出するためだった。また林業やモレアの伝統的な絹産業も奨励された。ギリシアの中でオスマン帝国の支配下にとどまった地域や、北アフリカとの交易ルートも整備され、レーズンや穀物、綿花、オリーブ油、革、絹、蝋といった物産が輸出された。こうして経済も大きく発展し、税収も急速に増加した。1684/5年の税収は61,681レアルだったのが、1691年には274,207レアル、1710年には500,501レアルにまで増えた。そのうち5分の3は、モレアのために用いられた。なお、モレア戦争以前のオスマン帝国支配下での総税収は1,699,000レアルと推定されている。 ヴェネツィア支配下のモレアは多数の移民が流入したため、非常に社会的流動性が高かった。元からの住民と移民は、形の上ではそれぞれがそれまで属していた社会階級にとどまっていたのだが、ヴェネツィア当局は体制支持者に頻繁にコンテアス(conteas、「伯領」)と呼ばれる世襲封土を与えた。この政策は経済的な好況をもたらした。1570年代にペロポネソスのキリスト教徒スィパーヒーが解散させられて以降初めて、裕福な商人や領主の階層が形成された。その多くは、アテネやキオス島、イオニア諸島出身の人々だった。ギリシアの歴史家アポストロス・ヴァカロポウロスによると、この階層が、後に18世紀後半からギリシャ独立戦争までオスマン帝国支配下でペロポネソス半島の自治権を独占し寡頭制を敷いたコジャバシスあるいはプロクリトイと呼ばれた階層の起源となった。その一方で、先住者か移民かにかかわらず、大部分の農民の置かれる状況は、借金や賦役、土地の欠乏などにより日増しに悪化していった。こうした窮乏した農民たち、特に中央ギリシアに住み着いた移民の多くは、コリンティアコス湾を渡ってオスマン領に逃れることを選んだ。オスマン当局がこれを歓迎した一方、ヴェネツィア当局は住民流出を防ぐため警備隊を増設せざるを得なかった。この状況は、モレア人社会の心理をよく象徴するものだった。後の1715年にオスマン帝国がペロポネソス半島を再征服したとき、大部分の住民はこれをそのまま受け入れた。ヴェネツィアを支援した住民はコンテアスなどごく一部で、彼らはヴェネツィアの敗北に伴い半島における資産を放棄してイタリアへ亡命していった。 モレア戦争中の略奪と混乱のために、ヴェネツィア領モレアでは全土で盗賊が横行していた。これに対抗するため、ヴェネツィア当局はメイダーニ(meidani)と称する武装警官隊を組織し、またオスマン帝国のアマルトイ制度にならって、各村を武装させ自衛させた。これらは一定の成果を上げたが、盗賊を完全に一掃することはできなかった。マニ半島民などは到達困難な山地に城塞を築き、ヴェネツィアの支配を拒み続けた。
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経済と社会
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中世の列島社会は生産力水準から、畿内近国地域・中間地域・辺境地域(先進地帯・中間地帯・後進地帯)の3つの地域に分類されている。 中世の日本列島では、米と麦の二毛作が普及し、15世紀の畿内では三毛作を実施している地域も存在した(ただし、二毛作が積極的に行われたのは畿内や西日本であって、東日本では殆ど行われなかった)。麦は米と違い非課税で収穫のすべてが農民のものとなる。そのため農民にとって二毛作の重要性は高かった。中世の日本の農業生産は、二毛作の普及のほか用水の整備、土地の改善によって向上していった。 戦国時代は戦乱の影響もあって人や物の流動が活発化し、貨幣の持つ相対的な価値が向上した。戦国時代初期には勘合貿易および一種の密貿易である私貿易といった明との貿易や南蛮貿易によって、明から舶来品だけでなく大量の銅銭の導入を図り、貨幣経済の確立をなしとげる段階にあった。また、ヨーロッパ人の来航とともに金銀比価の関係から、金銀の輸出入が盛んになった。世界遺産にも登録された石見銀山に代表される、金山・銀山の運営が経済の発展に伴い重要性を増した。この頃、金銀の品位改善のための灰吹法や砂鉄による鑪生産などといった新技術も導入された。金山・銀山の保持が主目的の城砦も築かれ、金山・銀山といった権益が絡む戦国大名同士の争いが繰り広げられることもあった。 1568年に織田信長が上洛するとこれまでの座、問丸、株仲間を排斥し楽市・楽座により自由な市場取引を推奨した。その後の豊臣政権においても直轄地および全国の大名領において楽市・楽座が推進された。市場取引の活発化にも伴い、これまでの領国貨幣から、統一貨幣の発行も秀吉により行われた。 その一方で農村部では各地に存在した荘園は戦国大名や国人領主による押領の対象となり、荘園制は解体する。だが、徴税体制の中に依然として従来の名体制・職の体系を継承した部分も残されたものの、次第に大名主導による年貢などの負担の平均化が進められた。また、一地一作人原則が確立されて土地に対する借耕が盛んになり加地子・作徳分が成立するようになる。戦国大名の元で大規模な新田開発や灌漑整備が進められ、築城技術で培われた土木技術が農業面でも応用された。『拾芥抄』によれば100万町歩とされた全国の田畑面積が、慶長年間の慶長日本図編纂においては160万町歩であったとされている。更に各地で米以外の特産物も盛んに生産されるようになり、山城・大和の茶や紀伊の蜜柑などが知られるようになった。また、木綿栽培が普及したのもこの時期である。 商業中心地としては、ハブ港としての役割を担った堺や博多が栄えた。拠点間輸送には水運が多用され、東南アジア地域の輸送ネットワークの一部としても機能していた。堺の繁栄は特に顕著で、会合衆である納屋衆による合議制の元、自治を行い、都市全体に濠を巡らし、牢人を傭兵として雇うなど、戦国大名による支配も拒絶していた。他の都市としては、京都や、地方では山口・小浜・品川湊なども集積地や中継拠点としての役割を果たしている。 戦術の個人戦法から集団戦法への変換は、武器や甲冑の需要を増し、刀鍛冶らの職人も、それまでの銘物としての一品生産を中心とする生産方法から、ある程度の使い捨てを念頭に置いた大量生産を行うようになった。さらに、火縄銃など火器類の流入は、従来、非常時には徴発によってかなりの部分を賄いえていた軍需物資に、火薬など大量消費型の品々を加えることになり、ロジスティクスの重要性が高まった。茶屋四郎次郎のように、戦国大名の兵站を請け負う商人も出現した。
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