水上七郎の建設運動
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発案者の水上七郎(みなかみしちろう、1881年-1926年)は熊本県出身で、東京帝国大学法科大学法律学科に進み、筧克彦教授と出会い、その思想に心酔するようになった。筧教授は法学と神道とを組み合わせた「古神道」「神ながらの道」を提唱していた。 水上は、大学を卒業した1910年に高等文官試験に合格し、警察官僚として各地でキャリアを積み、1920年9月に滋賀県警察部長に就任した。人の好き嫌いが激しく、神ながらの道に没頭しているので、官界での評判は芳しくなかった。まるで哲学者か宗教家かのようだといわれた。水上の属する内務省は神社非宗教論の立場であったが、恩師の筧克彦は内面に根差した精神性を考えて神社を宗教とみなしていた。水上もまた神社参拝に霊験を求めていた。宗教色の薄い教育勅語でもなく、神社非宗教論に煩わされる神社でもなく、漠然と天地神明に誓う形式をとる御誓文を選んだのは、普遍的精神世界に通じる宗教的記念碑として受け入れやすいかたちで誓の御柱を建てていけば、全国に普及して国民に皇国精神を根付かせることができると考えたからであった。 滋賀県警察部長に就任して3か月、1921年1月10日に誓の御柱の建設の提唱を始めた。水上は次のように考えた。当時の社会情勢は生活難や過激思想や国際問題など様々な矛盾が噴出しているので、これらを善美化するには、建国の精神をかえりみて宣揚しなければならず、そのためには明治天皇が天地神明に誓った五箇条の御誓文の精神に立ち返り、各人に使命を自覚をさせる象徴が必要である。国家は標語や象徴を用いて国民性を深めている。国民を感化するには深遠な理論よりも簡単な標語なのだ。根本の皇国思想にも新しい衣を着せる必要がある。こう考えた水上にとって誓の御柱はその象徴であった。水上は建設予定地に琵琶湖の多景島を選んだ。多景島に建てる理由をいくつか示しているが、ほとんど後付けの理由で、実際にはおそらく当時の多景島が官有地であったことや、島で唯一人が住んでいた見塔寺に常住僧侶がいなかったことなどから、この島の信仰基盤の弱さを見越してここを選んだと考えられる。 建設にあたっては出資金を1人あたり1円以下に抑えることを標榜した。一握りの金持ちではなく、下層民を含む幅広い人々に参加してもらいたいという趣旨であった。パンフレット『誓之御柱』を刊行し宣伝につとめた。普及団体やさか会において誓の御柱の模型を製作した。高さ30cmほどのサイズの模型で「床置きとして至極適当」な「祝儀の贈物」として製作し、模型の底に大正文化維新を讃える文言を記載した。模型1基12円で頒布した。同時に魂拭(みたまぬぐい)、別名を弥栄木綿という手拭いを頒布した。賛同者の出資金の払い込み先は一笑会の名義で、一笑会の所在地は東京市の筧克彦方であったが、振替貯金口座は大阪に置かれていた。大阪には建設業者大林組の営業所(本店)が在った。大林組は御柱建設の収纏金と関係があり、後に建設工事を請け負うことになる。 建設運動は批判に晒された。大阪朝日新聞は、募金の範囲が巡査や小学児童や芸娼妓など零細に及び、募金の方法も警察権を濫用して強制していると指摘した。滋賀県庁内でも理解を得られなかった。水上は事前の根回しなどしなかったので、県知事以下県庁幹部は建設計画を新聞で読んで初めて知った。県庁内では「水上君の気ちがひの御柱」と噂されていると新聞に書かれた。さらに滋賀県会(県議会)でも問題になった。巡査が村に商人を連れてきて模型や書画を押し売りするという問題が頻発していると指摘された。県警察部長の水上は県会答弁に県警幹部を出席させないなど不誠実な対応をとった。水上は1923年に三重県内務部長に転じるが、三重県でも引き続き建設運動に没頭した。水上の建設運動は勤務時間中に「皇国精神作興宣伝に狂奔」するものとして問題視された。水上は監督官から何度も訓戒を受け、御柱建設に関する一切の文筆活動を差し止められた。 御柱建設に関する執筆を差し止められた水上七郎は、1924年3月15日に非売品冊子『国之礎』を自ら発行し、これに誓之御柱のパンフレットを掲載した。この『国之礎』は目次を見ると単なる詔勅集のように見える体裁で、誓之御柱については目次に挙げずに、冊子の後ろの方にパンフレットを忍ばせた。パンフレットでは御柱建設の趣意について次のように説明している(大意)。 御柱建設の目的は、壮麗な皇国精神を最も簡単に我らの眼の前に映し出し、あらゆる矛盾の中に堅実な基礎を確立し、これらの矛盾を転じて真善美となすことである。 生活難・過激思想・国際問題など、国内も国外も矛盾に満ちている。神は日本に任務を授けた。全世界を背負って立ち、万国の模範となって進むという大任を果たすためには、おのれの魂を自覚することが急務である。矛盾を転じて善美となすか醜悪となすかは我らが神ながらの魂をもって臨むか否かで定まる。こうして皇国の弥栄(いやさか)と建国の精神とは離れることができない。 この建国の精神は国の始まったときからいよいよ発揚されてきているが、近くは明治天皇の践祚の初めに臣民を率いて天地神明に誓った五箇条に簡単明瞭に表れている。この五箇条の御誓文によって、明治の代は栄え、国家の運勢はますます興隆し、皇室の基盤はいよいよ固く、人民はみな独立独歩を準備できたのである。 この皇国精神は運用や実現の形式に違いはあるが、現代に至っても、いよいよ修養しなければならない。それゆえ天地をも精神をも支えるべき御柱を建設し、国民進歩の根本精神を表わし、これに向かってますます実修の気運を起すようにしたいと思う。多景島だけを見れば小さいが、琵琶湖を背景とする所である。琵琶湖は富士山と並んで民族理想の権化であり、歴史上も場所柄も皇国を背景とする所であるから、こここそ究極の地であろう。 この事業は人々もれなく互いに手を引きあって行うことに意味があると思う。我々の総てが発起人となって、金銭なり物品なり労力なりを出しあって工事を終えたいものである。こうして出来る物は御柱であるから外観は素朴であろうが、一切の人々の弥栄え(いやさかえ)の清明心(あかきこころ)の結晶に外ならない。あらゆる人々の皇国精神が各人を超越して外面にあらわれ、お互い両立しつつあるものとなる。 この皇国精神こそ、高天原において八百万の神々が唱えたと伝えられる「.mw-parser-output ruby>rt,.mw-parser-output ruby>rtc{font-feature-settings:"ruby"1}.mw-parser-output ruby.large{font-size:250%}.mw-parser-output ruby.large>rt,.mw-parser-output ruby.large>rtc{font-size:.3em}天(あ)っ晴(は)れ あな面白(おもしろ) あな手伸(たのし) あな明(さや)け おけ」という言葉により簡単に表すことができるものである。 以上のような趣意説明に続いて、御柱に刻むべき五箇条の御誓文の全文を掲げ、次いで弥栄という文字を彫る理由について以下のように説明している(大意)。 弥栄(いやさか)とは創造・化育・生成という意味であって、すべてのものが弥々栄(いよいよさか)えたうえにも弥栄(いやさか)え、枯れも腐りもせず、理想通りその目的を実現していくことを言うのである。三種の神器の八尺瓊(やさかに)の勾玉は、弥栄(いやさか)の勾玉であって、天津日嗣(あまつひつぎ)が万世一系に天壌無窮に弥々栄(いよいよさか)えることを表わすのである。それだから弥栄(いやさか)の文字を記して皇位の弥栄(いやさか)を祈るとともに我々国民相互の弥栄(いやさか)を祈る心を表わすのである。 さらに「天つ晴れ」以下の言葉を彫る理由については次のように説明している(大意)。 「天(あ)っ晴(は)れ あな面白(おもしろ) あな手伸(たのし) あな明(さや)け おけ」の言葉は天の岩戸から天照大神が現われ出た時に、八百万の神々が喜びのあまり異口同音に唱えた言葉である(古語拾遺)。我らの先祖の八百万の神々が喜んだ気持ちを忘れないことが世の中が進歩するほどいよいよ必要なことであり大切なことであるから、この言葉を記すのである。 以上の小冊子のほか、水上は誓の御柱のペーパークラフトを自己名義で著作し、1924年5月10日付けでやさか会より発行し、定価20銭で販売した。一応、禁じられた文筆活動ではない。 その後、水上は佐賀県内務部長に転じ、多景島からさらに遠くなった。「佐賀へ行つても相変わらず惟神(かむながら)鼓吹をやつて居るかネ」「役所の仕事をお留守にはしないかネ」「地方行政官として適任と思ふかネ」と噂された。
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