控訴取り下げ・異議申し立て
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「藤沢市母娘ら5人殺害事件」の記事における「控訴取り下げ・異議申し立て」の解説
死刑判決を不服として控訴した被告人Fだったが、東京高裁で開かれる控訴審第1回公判(初公判)期日前の1989年(平成元年)5月6日夜には収監先・東京拘置所の職員に対し「もう助からないから控訴をやめる」と言い出した。同高裁第11刑事部で開かれた公判でも「もう助からないから控訴をやめたい」と発言した。これに対し、裁判長は「重要な事項なので、(控訴を取り下げる場合は)弁護人とよく相談してから決めるように」と説諭したが、被告人Fは同年12月28日にも拘置所職員に「控訴を取り下げて死刑を確定させろ。上司に会いたい。早くしてくれ」と言い張るなどしたほか、その後も拘置所職員・接見のために同拘置所を訪れた弁護人に対してもしばしば「控訴を取り下げたい」という趣旨の発言をしていた。このため、弁護人はその度に被告人Fを説得して控訴取り下げを思い留まらせつつ、東京拘置所職員にも「Fの『控訴取り下げ』要求を取り上げないでほしい」などと依頼するなどしていた。 1990年(平成2年)3月13日、被告人Fは東京拘置所の職員に対し「電波で音が入ってきてうるさい。生き地獄が辛い。早く確定して死刑になって死にたい」などと発言した、東京高裁は1991年(平成3年)4月10日の第11回公判で、弁護人がかねてから請求していた被告人Fの犯行時・現在の精神状態に関する精神鑑定を採用したが、その際にFは「精神鑑定は拒否する。要求が容れられないなら控訴を取り下げる」などと発言し、8日後(1991年4月18日)には東京拘置所で控訴取下に必要な手続・書類の交付を強く求めた。この事実を東京拘置所から連絡された弁護人・岡崎敬は同月23日に被告人Fと接見し、控訴を取り下げないよう説得したが、Fはそれに応じず、弁護人との接見・拘置所職員による事情聴取などの手続を経て「控訴取下書」用紙の交付を受け、所要事項を記入して同日付の控訴取下書を作成し、それを東京拘置所長に提出した。 これにより、公判は第11回目まで開かれた時点で中断する格好となったが、弁護団は以下のような理由から「控訴取り下げの効力には疑義がある」と表明した。 被告人Fは「控訴取り下げ」の意味を理解しておらず「控訴を取り下げれば死刑判決が確定する」とは思っていなかった。Fに対してはそれまで裁判所による精神鑑定が行われておらず、被告人Fはその精神鑑定を回避する目的で控訴を取り下げた。 被告人Fは深刻な拘禁症状(ノイローゼ)を発症しており弁護団ともまともな意思疎通ができない状態にある。 1991年5月10日、被告人Fは東京高裁から審尋を受けて控訴取下書提出の動機・経緯などの真意を質問された際に「裁判所・訴訟関係人の質問」に対してはあまり多くを語らなかったが「控訴取下書は自ら作成したものだ」と認めた上で、それを作成した動機は「本当は無罪になって娑婆に出たいが、世界で一番強い人に『生きているのがつまらなくなる』魔法をかけられたり『10年間の生き地獄にする』と言われたりしているので毎日がとても苦しい。『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思ったからだ」と供述した。これを受け、東京高裁はその供述に鑑みて「被告人Fの現在の精神状態、特に被告人Fが控訴取下書を提出した時点で『控訴取り下げなどの行為が訴訟上持つ意味を理解して行為する能力』(=訴訟能力)があったか否か」を含め、慶應義塾大学医学部名誉教授の医師・保崎秀夫に精神鑑定を命じた。鑑定人・保崎は関係記録を検討して1991年6月10日 - 8月20日まで(約2か月間に)、計6回にわたり被告人Fに面接して精神鑑定作業を進めたが、Fはその間も保崎の再三に亘る説得を聞き入れず、身体的・精神的諸検査を拒否したため、保崎はやむを得ず「被告人Fとの面接結果」を中心に鑑定を行い、1991年9月13日付で東京高裁に精神鑑定書を提出した。 東京高裁が「死刑判決に対する控訴の取り下げ」という「訴訟法上重大な効果を伴うもの」である本件に関して「その効力の有無を慎重に検討する」目的で1991年11月18日に鑑定人・保崎に対する証人尋問を行い、「被告人Fの精神状態の把握」「被告人Fの訴訟能力の有無」に関する疑問点の解消に努めたところ、証人尋問で保崎は「被告人Fは現在(鑑定当時)拘禁反応の状態にはあるが、本件控訴取り下げ書を作成・提出した時点において『控訴取り下げなどの行為が訴訟上有する意味を理解・行為する能力』は多少問題があったとしても失われているほどではない」とする結論を示した。その一方で、被告人Fは1991年10月 - 11月にかけ、実母宛の手紙で一転して控訴取り下げを撤回する意思表示をしている。 1992年(平成4年)1月22日、弁護人は東京高裁へ「本件控訴取下げ当時の被告人Fの訴訟能力(とりわけ主体的・合理的な判断能力)の存在には大きな疑問があるため、本件控訴取下げは無効とすべきである」などとする趣旨の意見書(千葉大学法経学部助教授・後藤昭作成)を提出した。しかし、東京高裁第11刑事部(小泉祐康裁判長)は同年1月31日付で以下のように「控訴取り下げは被告人F自身の『死への願望』というやや特殊な動機だが、被告人本人の真意であるため取り下げは有効である」とする決定を出した。 被告人F自身が控訴審初公判で「もう助からないから控訴を取り下げたい」と発言したり、取り下げ書提出後に東京高裁の質問に対し「『控訴を取り下げれば早く死刑になって楽になれる』と思った」と回答した。 精神鑑定結果で「被告人Fの精神は拘禁反応の状態にはあるが、『控訴取り下げの意味を理解する能力』は多少の問題はあるにしても完全に失われているわけではない」とされており、弁護団の「取り下げは被告人Fの一時の気紛れ・気の迷いによるもの」という主張は当てはまらない。 控訴取り下げ撤回の意思を表明してもいったん終了した訴訟状態は復活させることはできない。 この決定により控訴審は「控訴取り下げ時点に遡って終了し、そのまま第一審・死刑判決が確定」することになったが、被告人Fの弁護団は同年2月3日夜に「控訴取り下げは精神的に不安定な状況で行われており、本人に訴訟能力がないため無効だ」などとして東京高裁決定に対する異議を申し立て、同年3月27日には東京高裁に「被告人Fには精神分裂病(統合失調症)の疑いがあり、本件控訴取下は幻覚・妄想に影響された非合理的・非現実的な動機によってなされたものだ。仮に被告人Fが保崎の鑑定で示されたように拘禁症状を有していたとしても、被告人Fの訴訟能力には重大な障害が発生していることは否定できず、被告人の精神鑑定を再度実施する必要がある」とする趣旨の意見書(財団法人東京都精神医学総合研究所副参事医師・中谷陽二作成)を提出した。これを受け、1992年6月11日までに東京高裁第12刑事部(横田安弘裁判長)は「『被告人Fが控訴取り下げの意味を理解した上で取り下げを行ったかどうか』を改めて精査する必要がある」として聖マリアンナ医学研究所顧問・逸見武光を鑑定人に指定した上で、被告人Fに対し2度目の精神鑑定を行うことを決定した。 鑑定人・逸見は1993年(平成5年)2月1日付で精神鑑定書を提出したほか、1993年4月22日に東京高裁が実施した鑑定人尋問で「被告人Fはいわゆる境界例人格障害者で、現在(鑑定時)の精神状態は幻覚・妄想状態にある。その幻覚・妄想状態は重度の心因(ストレス)に起因する特定不能の精神障害のうち『分裂病型障害』と考えられ、控訴取り下げ時の精神状態も現在と同様であると思われる。拘禁後の被告人Fの幻覚・妄想状態は精神分裂病状態とほとんど変わらず、被告人が死への願望を抱くこと自体が精神分裂病に起因するものであって、被告人Fは控訴取り下げの意味を十分に理解しているとはいえず、その訴訟能力はなかったといわざるを得ない」とする結論を示した。それに対し検察官から1993年6月23日付で「さらに被告人Fの精神状態を鑑定する必要がある」とする申し出がなされたため、東京高裁第12刑事部(小田健司裁判長)は1993年7月16日付で(鑑定人尋問は同年8月17日)上智大学文学部教授(心理学)・福島章に3度目の精神鑑定を行うよう命じた。被告人1人に対し再々鑑定(3度目の精神鑑定)が行われることは極めて異例で、鑑定人・福島は1993年11月19日に精神状態鑑定書を提出したほか、1994年(平成6年)6月30日に行われた証人尋問では「被告人Fは現在に至るまで精神分裂病・境界例であったことはない。控訴取り下げ時点では拘禁反応状態で願望充足的な妄想的観念を抱いていたため、控訴取り下げの義理を理解し、自己を守る能力(訴訟能力)は多少低下していたがその実質的能力が著しく低下・喪失された精神状態ではなかった」とする鑑定結果を示した。 東京高裁第12刑事部(円井義弘裁判長)は1994年11月30日付で「被告人Fは控訴を取り下げた時点で拘禁反応状態(ノイローゼ)にはあったが、取り下げの意味は理解しており訴訟能力の欠如は認められず、控訴取り下げは有効なものだ」と認定して弁護人からなされた「訴訟終了決定」への異議申し立てを棄却する決定をした。
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控訴取り下げ・異議申し立て
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「寝屋川市中1男女殺害事件」の記事における「控訴取り下げ・異議申し立て」の解説
山田は収監先・大阪拘置所にて判決直前の2018年12月7日に『朝日新聞』記者・畑宗太郎の取材を受けた際に「裁判は第一審では終わらないだろう。死刑判決が出れば弁護人が、それ以外の判決でも検察官が控訴するだろう」と語っていたほか、2019年(令和元年)5月までに『読売新聞』・『毎日新聞』記者から複数回取材を受けた際にもそれぞれ引き続き係争する意向を示していた。しかし被告人Yは2019年5月18日に大阪拘置所内で刑務官とトラブルになり憤慨したことをきっかけに「もうどうでもいい」と自暴自棄になり、弁護人を含めて誰にも相談することなく控訴取下書を書いて大阪高裁に提出し、同日付で受理されたため死刑判決が確定した。これにより本事件は詳細な経緯・動機が未解明のまま幕切れすることとなり、日本において2019年5月1日の令和改元後では初めての死刑確定となった。 死刑確定直後の2019年5月21日、死刑囚(死刑確定者)となった山田は収監先・大阪拘置所内で『毎日新聞』記者との接見に応じ、前述の控訴取り下げに至る経緯・弁護人に事前に伝えなかったことなどを明かした。死刑囚Yの弁護人は2019年5月30日付で大阪高裁へ「死刑囚Y自身による控訴取り下げは無効であり控訴審を再開すべきである」とする申し入れをした。 2019年12月17日付で大阪高裁第6刑事部(村山浩昭裁判長)は「死刑囚Y自身による控訴取り下げは看守とのトラブルにより自暴自棄に陥った末の行動であり、取り下げがもたらす結果(死刑確定)を明確に意識できていなかった可能性がある。そのような状況下でなされた取り下げの効力には疑義がある」として、死刑囚Yによる控訴取り下げを無効とし、控訴審を開くよう決定した。大阪高等検察庁は同決定を不服として2019年12月20日付で最高裁判所への特別抗告および大阪高裁への異議申し立てを行った。大阪高裁第6刑事部の控訴取り下げ無効決定後、Yは月刊誌『創』編集長の篠田博之と接見し、同誌2020年3月号(2020年2月発売)に獄中手記を寄せた。 一方、山田は2020年(令和2年)3月24日に再び控訴取り下げを求める書面を提出した。しかしこの2回目の控訴取下書は提出から2か月近くが経過した2020年5月19日時点でも(新型コロナウイルスの感染拡大による影響から)保留されたまま正式に受理されておらず、弁護人は2020年5月14日付でその取下書についても無効とするよう大阪高裁に申し入れた。 大阪高検による大阪高裁第6刑事部決定に対する異議審では、異議申し立てを受けていた大阪高裁第1刑事部(和田真裁判長)が同年3月16日付で「第6刑事部の『直ちに判決を確定させることに強い違和感があるため、控訴審を再開すべきだ』という決定は合理的な根拠を示しておらず、被告人山田の訴訟能力に関する判断材料も不足している」と指摘して原決定を取り消し、審理を第6刑事部に差し戻す決定を出した。これを不服とした弁護人側は2020年3月23日付で最高裁へ特別抗告を申し立てたが、2020年6月17日付の最高裁第一小法廷(池上政幸裁判長)による決定でその特別抗告が棄却されたため、控訴取り下げの有効性については大阪高裁で再び審理し直されることとなった。結果、大阪高裁第6刑事部(村山浩昭裁判長)は2020年11月26日付で、2度目の控訴取り下げについて、「控訴を取り下げれば死刑が確定することを明確に意識した上で提出したと考えられる」として、有効と認める決定を出した。同決定に対し、弁護人は11月30日付けで異議申し立てを行ったが、大阪高裁第1刑事部(和田真裁判長)は2021年3月22日付で、原決定を支持して弁護人の異議申し立てを棄却する決定を出した。弁護側が特別抗告したが、最高裁第三小法廷(宇賀克也裁判長)が2021年8月25日付でそれを棄却する決定を出したため、控訴審は開かれないことが確定した。 山田は死刑が確定した直後に公表した手記で、今後再審請求することを明かしている。
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