控訴審ごろまで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 08:40 UTC 版)
井出孫六らの支援で獄中手記が1971年に『無知の涙』として刊行されると、支援者の呼びかけに答えて公判で発言するようになる。また弁護人に函館事件の遺族(妻)が懐妊中だったと聞かされたり、親しくなった看守が異動で別れた経験から、自らと同じ境遇の子どもを作ったことへの自責の念を抱き、著書の印税を被害者遺族に届けることになった(2遺族は受取を拒否)。 支援者の説得に応じて再度の精神鑑定を受ける気持ちになり、1974年に八王子医療刑務所技官・石川義博による鑑定のための聞き取りを数か月にわたって受け、生い立ちから犯行までを語った。佐木隆三 (1994) は永山の言動の変遷について、「裁判の当初は意見陳述書・控訴趣意書などで自己を正当化する攻撃的な文章を書き続けていたが、控訴審判決により無期懲役になったことで、自らを客観的に見つめる余裕が初めて生じたからだろう」と述べている。 1980年に以前から文通していた在米日本人・和美(フィリピンと日本のハーフ)と獄中結婚。支援者に加え、妻らの働きかけと、裁判での審理の経験を通じて、自己が犯した罪と与えた被害の修復不可能性に関して、自己に対しても他者に対しても社会に対しても客観的に認識・考察する考え方を示した。その結果、最終的には真摯な反省・謝罪・贖罪を主張するに至った。また5人分の命(被害者と自分)を背負って贖罪に生きることが償いになるのではないかといったやり取りが残されている。二審のやり取りの中でもし社会復帰をしたらの問いに対し「テストで1番の子がビリの子を助けるような塾をやりたい」といった趣旨の発言をしている。
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