死刑囚Y
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:42 UTC 版)
「北九州市病院長殺害事件」の記事における「死刑囚Y」の解説
加害者Y・K(以下「Y」/スナック経営)は1952年(昭和27年)9月5日生まれ(事件当時27歳)。本籍地は北九州市戸畑区椎ノ木町96番地の2、住居は椎ノ木町9番10号。事件前まで、前科・前歴はなく、妻子とともに円満・平穏に生活していた。パーマの髪と口髭がトレードマークで、犯行時には髭を剃り落としていた。 Yの両親は終戦後、八幡から知人を頼って神奈川県に出たが、その知人に会えず、日雇いや店員などの仕事をして生計を立てていた。その後、神奈川県足柄下郡湯本町(現:箱根町)で長男Yが生まれると、1954年(昭和29年)ごろ、遠賀郡水巻町に戻った。両親は、日炭高松炭住街の人々を得意先として、鮮魚の行商をしていたが、Yが10歳(小学校4年生)のころ、炭鉱の閉山によって町の人口が減り、商売が不調になった。そのため、父は梱包会社に勤めるようになり、真面目さと努力が実ったことで課長にまで昇進した。母はYが5年生のころ、リアカーに魚を載せて行商をするようになったが、Yも小学校のころから高校卒業まで、苦しい家計を支えるため、母の鮮魚の行商を手伝った。 その後、Yは1965年(昭和40年)3月に下二小学校を卒業し、水巻中学校に進学したが、中学2年の時、卓球クラブで知り合った少年(家庭が生活保護を受け、少年院にも入った経験がある)と仲良くなり、空き巣の見張りをして、少年が盗んだ金を分前として貰ったことがあった。しかし、主犯の少年が部屋の中に汚物をしていたため、被害者の激怒を買い、Yは父親とともに小倉家庭裁判所で厳しく叱られた。この1件以来、Yは周囲から疑いの目で見られるようになったが、中学3年生に進学した際、担任が英語の教師に交代すると、その教師がYの過去の汚点を物ともせず対処してくれたことや、Y自身も英語が得意だったことから、再び活気を取り戻した。 1968年(昭和43年)、福岡県立水産高校製造科に進学。高校時代は、1年生の際にクラスの副学級委員を、3年生の際に新聞部長をそれぞれ務め、クラブの教諭の推薦で、保護司会が後援した西日本新聞社主催の弁論大会に、「人間失格」というテーマで出場し、地区予選まで残った。 高校卒業後、叔父(母の弟)が経営するタイヤ販売会社に就職し、1971年11月には4歳年上の妻と結婚。翌1972年(昭和47年)11月に長男が誕生したが、1973年にオイルショックの影響で経営が悪化したことから、退職して新たな仕事を探していたところ、高校時代の同級生からの勧めで、その友人の兄が経営していたスナックに務めることになった。1974年(昭和49年)8月以降、スナックやクラブなどのバーテン・店長などを経て、それらの経験を生かし、1978年(昭和53年)11月以降、自分の店であるスナック「ピラニア」を経営するようになった。 犯行後、逮捕されるまでに追及を免れようと、刑事訴訟法の解説書を読んだり、冤罪事件を扱った本を買い込んだり、免田事件や荒木虎美事件をスクラップしたりしており、逮捕後もそれらから得た知識を生かして、全面自供まで32日間にわたり、のらりくらりと追及をかわし続けた。一方、獄中では、身辺雑記や家族への手紙を書いたり、英和辞典を用いて洋書を読んだり、ハングルの勉強をしたりしていた。また、店を処分して300万円を工面し、これを遺族に対する慰謝料として払おうとしたが、受け取りを拒否されたため、財団法人犯罪被害救援基金に寄託した。上告審判決直前の時点で、Yは東京拘置所に収監されていたが、当時は落ち着いた生活を送りながら、『風と共に去りぬ』の原書を読んでおり、Yの両親も10分間の面会のため、毎週1回上京していた。
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