慣習と宗教とは? わかりやすく解説

慣習と宗教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/08 04:19 UTC 版)

ルーシ・カガン国」の記事における「慣習と宗教」の解説

詳細は「en:Norse paganism」、「en:Slavic mythology」、「en:Christianization of the Rus' Khaganate」を参照 1820年ら行われたラドガ北部ロシア関連集落発掘調査により、ルーシ慣習主としてスカンディナヴィア人の影響受けていることが分かった。これはイブン・ルスタとイブン・ファドラーンとの著述の間でも一致しているところである。イブン・ルスタはルーシ王族葬儀簡潔に記述しており、「彼らの中の地位の高い者が死んだ時には、広い家のような墓を掘って死者をそこに安置する。」さらに、食糧黄金の腕輪など装飾品硬貨、酒をいれた水差などの他、生前愛していた妻も一緒に墓に入れる。「墓の入口閉じられると、彼女はその中で息が絶える。」イブン・ファドラーンもう少し詳細な記録残しており、ルーシ死者のために墳丘墓あるいは慰霊碑をつくり、そこにはルーン文字碑文刻まれることもあったとしている。さらにルーシ風習として船葬についても詳しい記述がある。ルーシの船葬には動物人間の生贄を伴う。また、貧しいものが死ぬと小型の船をつくり、中に遺体納めてそのまま火葬する一方裕福なものの場合手の込んだ葬儀となる。財産三等分され、三分の一家族のために、三分の一葬儀衣装裁断するために、そして残り三分の一で酒(ビール)をつくる。また女奴のうちから、自発的に主人と死を共にして天国付き添うものをつどる。火葬当日死体墓所から掘り返され上質な衣服着替え葬儀為に特注された船に乗せられる。死を申し出た女奴隷は(故人親族友人交わった後)殺され故人とともに船に乗せられてから、故人のもっとも近親のものが船に火をかけるそのあと火葬の船の場所に円形の丘のようなものを築き葬儀は終わる。」 中世初期歴史家たちは、ルーシ産まれたときから独立開拓精神持ち合わせていることに感銘受けていた。イブン・ルスタはこう記している。「子供生まれたとき、その子前に刀剣差し出してから、子の面前投げて”わしは、決してお前にこれを財産として残すのではなくお間自身所有するこの刀剣によって、[将来]、お前自らの財を得るためのものだ。」9世紀天文地理学者マルワズィー(en)は、これは息子対す教育・指導についての記述であり、父親遺産受け継いだのは娘であった報告している。こうした無骨なまでの個人主義病気への対処仕方にも現れている。イブン・ファドラーンによると、「彼ら(ルーシ)の一人病気になると、彼らのところから離れた一角小型天幕張って、その中に病人放り込んでおく。そして、彼らはその者に若干パンと水持たせるだけで、決して近づいたり話し掛けたりしない。その病人奴隷であればなおさらのことである。もしもその者が自分回復すれば、そこで立ち上がって彼らのもとにもどるが、死んでしまえば、彼らはその者を焼いてしまう。しかし、その者が奴隷であれば、彼らはその奴隷放置しておく。すると、放置され奴隷肉食たちが食べてしまう。」史料では、ルーシが性についても自由主義だったことを伝えている。イブン・ファドラーンによると、ルーシの王は家来たちの控える前で恥じることなく女奴隷と交わったという。また、ヴォルガ河畔に到着したルーシ商人は、仲間の前でも売り物女奴隷と交わりときには乱交en)を重ねていることもあった。 イブン・ファドラーンとイブン・ルスタの両者とも、ルーシペイガニズム熱心に信仰している様を描写している。イブン・ルスタとガルディジーは、ルーシシャーマンあるいは呪医en:medicine men)、神官たち(attiba)は一般市民に対して大きな権力をもっていた。イブン・ルスタによると、この神官たちは「まるですべてのものを所有しているかのように振舞っていた。神官たちは、どの女、男、または動物を神への犠牲として捧げるかを決定するが、その決定覆ることはない。神官犠牲選ばれ人間動物受け取ると、その首に縄をかけ木吊るして殺したイブン・ファドラーンルーシ商人長い棒杭の前で貢物供え商売成功祈っていたことを記述した。その棒杭には、「人間似た顔が彫りこまれてあって、棒杭周囲小さな複数彫像があり、さらにそれらの彫像背後には土中立てられ数本長い棒杭がある。」商売がその者に不利になって滞在が長引くと貢物をさらに供えそれでもなお商売うまくいかない場合小さな彫像一つにも貢物持っていく。商売が特にうまくいった場合ルーシ商人は牛や羊といった貢物をさらに用意しその一部施し物として分け与える一方ビザンティン史料では、860年代終わりごろルーシキリスト教受容したことが記されている。総主教フォティオス1世は、867年回勅ルーシ人々改宗して熱心な信者となったと書き残し彼の地主教送ったことにも触れたコンスタンティノス7世は、この改宗ミカエル3世フォティオス功績ではなく祖父バシレイオス1世総主教イグナチウス(en)のおかげだと考えていた。コンスタンティノスは、ビザンティン説得力のある言葉と、金、銀や貴重な織物はじめとする贈り物によってルーシ改宗させたことを語っている。また、異教徒であったルーシは、大主教聖歌集を炉の火に投げ込んでも本には焦げ跡すらついていなかった、などという奇跡強く感銘受けていたとした。イブン・フルダーズベは、9世紀後半著作の中で、イスラームの地を訪れたルーシは自らが「キリスト教徒である」と主張したことを伝えている。このルーシ・カガン国キリスト教化に関しては、現代の歴史家たちの間でその史実性程度について見解分かれている。

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慣習と宗教

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:39 UTC 版)

ミナンカバウ人」の記事における「慣習と宗教」の解説

ミナンカバウ人にとって、アニミズム精霊信仰)は重要な構成要素である。それは、16世紀ミナンカバウ人社会イスラーム浸透してからも変わらないとはいえミナンカバウにおける宗教論じるうえで重要な視点は、在来精霊信仰外来イスラーム思想との対立をいかに同一化ていったかという視点である。ミナンカバウイスラーム化がほぼ完了したのは18世紀末のことであり、この時点では、「アダット社会的調和イスラーム自己宇宙秩序調和達成貢献するもの」、「アダットイスラーム対等相互関係形成し、ひとつの分離できない構成要素であった。 この関係が変わるのは、1803年ワッハーブ派影響受けたハジ・ミスキンをはじめとする3人のウラマーメッカからの巡礼ハッジ)から帰国したことによる当時ミナンカバウ社会は、経済的に繁栄をしていたものの、その反動として道徳的に退廃していた。そのことは、ミナンカバウ社会アヘン賭博横行していたこと、レイプ殺人強盗人身売買といった犯罪多発化していたこと、また、商人間のトラブル多く発生していた。ミスキンたちは、イスラーム教義前面押し出しミナンカバウ社会蔓延していた社会的退廃追放しようとした。この運動のことをパドリ運動と呼ぶ。 パドリ運動オランダ介入受けたことにより挫折余儀なくされたが、「アダットイスラーム基礎を置き、イスラームクルアーン基礎を置く」ということわざに顕れているように、「イスラーム教義が、アダットの最高のカテゴリーとしての永遠なる自然の法則」の中に統合されたことを意味するのである

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