慣習と宗教
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詳細は「en:Norse paganism」、「en:Slavic mythology」、「en:Christianization of the Rus' Khaganate」を参照 1820年から行われたラドガと北部ロシアの関連集落の発掘調査により、ルーシの慣習は主としてスカンディナヴィア人の影響を受けていることが分かった。これはイブン・ルスタとイブン・ファドラーンとの著述の間でも一致しているところである。イブン・ルスタはルーシの王族の葬儀を簡潔に記述しており、「彼らの中の地位の高い者が死んだ時には、広い家のような墓を掘って、死者をそこに安置する。」さらに、食糧や黄金の腕輪など装飾品、硬貨、酒をいれた水差などの他、生前愛していた妻も一緒に墓に入れる。「墓の入口が閉じられると、彼女はその中で息が絶える。」イブン・ファドラーンはもう少し詳細な記録を残しており、ルーシは死者のために墳丘墓あるいは慰霊碑をつくり、そこにはルーン文字の碑文が刻まれることもあったとしている。さらにルーシの風習として船葬についても詳しい記述がある。ルーシの船葬には動物と人間の生贄を伴う。また、貧しいものが死ぬと小型の船をつくり、中に遺体を納めてそのまま火葬する。一方、裕福なものの場合は手の込んだ葬儀となる。財産は三等分され、三分の一は家族のために、三分の一は葬儀衣装を裁断するために、そして残り三分の一で酒(ビール)をつくる。また女奴隷のうちから、自発的に主人と死を共にして天国へ付き添うものをつどる。火葬の当日、死体は墓所から掘り返され、上質な衣服へ着替え、葬儀の為に特注された船に乗せられる。死を申し出た女奴隷は(故人の親族や友人と交わった後)殺され、故人とともに船に乗せられてから、故人のもっとも近親のものが船に火をかける。そのあと、火葬の船の場所に円形の丘のようなものを築き、葬儀は終わる。」 中世初期の歴史家たちは、ルーシが産まれたときから独立と開拓の精神を持ち合わせていることに感銘を受けていた。イブン・ルスタはこう記している。「子供が生まれたとき、その子の前に刀剣を差し出してから、子の面前に投げて”わしは、決してお前にこれを財産として残すのではなく、お間自身の所有するこの刀剣によって、[将来]、お前自らの財を得るためのものだ。」9世紀の天文・地理学者マルワズィー(en)は、これは息子に対する教育・指導についての記述であり、父親の遺産を受け継いだのは娘であったと報告している。こうした無骨なまでの個人主義は病気への対処の仕方にも現れている。イブン・ファドラーンによると、「彼ら(ルーシ)の一人が病気になると、彼らのところから離れた一角に小型天幕を張って、その中に病人を放り込んでおく。そして、彼らはその者に若干のパンと水を持たせるだけで、決して近づいたり話し掛けたりしない。その病人が奴隷であれば、なおさらのことである。もしもその者が自分で回復すれば、そこで立ち上がって彼らのもとにもどるが、死んでしまえば、彼らはその者を焼いてしまう。しかし、その者が奴隷であれば、彼らはその奴隷を放置しておく。すると、放置された奴隷を犬や肉食の鳥たちが食べてしまう。」史料では、ルーシが性についても自由主義だったことを伝えている。イブン・ファドラーンによると、ルーシの王は家来たちの控える前で恥じることなく女奴隷と交わったという。また、ヴォルガ河畔に到着したルーシの商人は、仲間の前でも売り物の女奴隷と交わり、ときには乱交(en)を重ねていることもあった。 イブン・ファドラーンとイブン・ルスタの両者とも、ルーシがペイガニズムを熱心に信仰している様を描写している。イブン・ルスタとガルディジーは、ルーシのシャーマンあるいは呪医(en:medicine men)、神官たち(attiba)は一般市民に対して大きな権力をもっていた。イブン・ルスタによると、この神官たちは「まるですべてのものを所有しているかのように」振舞っていた。神官たちは、どの女、男、または動物を神への犠牲として捧げるかを決定するが、その決定が覆ることはない。神官は犠牲に選ばれた人間や動物を受け取ると、その首に縄をかけ木に吊るして殺した。イブン・ファドラーンはルーシの商人が長い棒杭の前で貢物を供え商売の成功を祈っていたことを記述した。その棒杭には、「人間に似た顔が彫りこまれてあって、棒杭の周囲に小さな複数の彫像があり、さらにそれらの彫像の背後には土中に立てられた数本の長い棒杭がある。」商売がその者に不利になって滞在が長引くと貢物をさらに供え、それでもなお商売がうまくいかない場合、小さな彫像の一つにも貢物を持っていく。商売が特にうまくいった場合、ルーシの商人は牛や羊といった貢物をさらに用意しその一部を施し物として分け与える。 一方、ビザンティンの史料では、860年代の終わりごろルーシがキリスト教を受容したことが記されている。総主教フォティオス1世は、867年の回勅でルーシの人々が改宗して熱心な信者となったと書き残し、彼の地に主教を送ったことにも触れた。コンスタンティノス7世は、この改宗はミカエル3世とフォティオスの功績ではなく、祖父バシレイオス1世と総主教イグナチウス(en)のおかげだと考えていた。コンスタンティノスは、ビザンティンが説得力のある言葉と、金、銀や貴重な織物をはじめとする贈り物によってルーシを改宗させたことを語っている。また、異教徒であったルーシは、大主教が聖歌集を炉の火に投げ込んでも本には焦げ跡すらついていなかった、などという奇跡に強く感銘を受けていたとした。イブン・フルダーズベは、9世紀後半の著作の中で、イスラームの地を訪れたルーシは自らが「キリスト教徒である」と主張したことを伝えている。このルーシ・カガン国のキリスト教化に関しては、現代の歴史家たちの間でその史実性と程度について見解が分かれている。
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慣習と宗教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/02 08:39 UTC 版)
ミナンカバウ人にとって、アニミズム(精霊信仰)は重要な構成要素である。それは、16世紀にミナンカバウ人の社会にイスラームが浸透してからも変わらない。 とはいえ、ミナンカバウにおける宗教を論じるうえで重要な視点は、在来の精霊信仰が外来のイスラームの思想との対立をいかに同一化していったかという視点である。ミナンカバウのイスラーム化がほぼ完了したのは18世紀末のことであり、この時点では、「アダットは社会的調和をイスラームは自己と宇宙秩序の調和の達成に貢献するもの」、「アダットとイスラームは対等の相互関係を形成し、ひとつの分離できない構成要素」であった。 この関係が変わるのは、1803年にワッハーブ派の影響を受けたハジ・ミスキンをはじめとする3人のウラマーがメッカからの巡礼(ハッジ)から帰国したことによる。 当時のミナンカバウ社会は、経済的には繁栄をしていたものの、その反動として道徳的には退廃していた。そのことは、ミナンカバウ社会にアヘンや賭博が横行していたこと、レイプ、殺人、強盗、人身売買といった犯罪が多発化していたこと、また、商人間のトラブルも多く発生していた。ミスキンたちは、イスラームの教義を前面に押し出し、ミナンカバウ社会に蔓延していた社会的退廃を追放しようとした。この運動のことをパドリ運動と呼ぶ。 パドリ運動はオランダの介入を受けたことにより挫折を余儀なくされたが、「アダットはイスラーム基礎を置き、イスラームはクルアーンに基礎を置く」ということわざに顕れているように、「イスラームの教義が、アダットの最高のカテゴリーとしての「永遠なる自然の法則」の中に統合されたことを意味する」のである。
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