思想と評価
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東洋社会党の思想は、ベンサムの最大多数の最大幸福や自然法の思想を基調とし、それに土地共有と結びつけたユートピア社会主義であった。自由民権運動の渦中、盛んに活動する自由党・改進党の両方が経済的不平等を無視する中で、東洋社会党は両党と同じく有産・有識階級を基盤としながらも土地共有を主張した。その一方で、社会主義の原則的立場であるところの生産手段の私有の禁止については言及することはなかった。他方で、吉野作造は、樽井に社会主義思想の開拓に功労があった事には違いないが、無政府主義と見るのは誤りで、社会党や虚無党の名を聞きかじっただけの一民権家であると評している。飯田鼎は、東洋社会党の思想は無政府主義的ではあるものの天皇制や国家権力については一切言及されておらず、社会変革の方向も開明専制的・国家主義的であるとしている。 東洋社会党の性格についての評価は、石川三四郎のように無政府主義団体と規定する者と山路愛山、吉野作造、木村毅のように国家社会主義であると規定する者に別れる。東洋社会党はその主張の性格と樽井へのマックス・シュティルナーの影響から、日本の無政府主義の源流とみなされることがある。石川三四郎と幸徳秋水は、「道徳を以て言行の基準とす」「平等を主義となす」という主張について、無政府主義の理想を明白に宣言したものであり、この党則は無政府主義結社の党則として完璧に近いと評している。山路愛山は、東洋社会党の主張は素朴なユートピア主義であるにもかかわらず、当時はアレクサンドル2世を暗殺した虚無党(ナロードニキ)のようなものとして必要以上に恐怖する雰囲気があったと回顧している。東洋社会党が弾圧によってすぐま雲散霧消してしまったことについて、崔栄漢は、バブーフの陰謀になぞらえて、日本の経済状況が社会主義運動の発展を促すまでに成熟していなかったとしている。麻生久は理想主義的で空想的社会主義の範疇に属するものであるが、マルクスなど社会主義の理論が紹介されていない中で自由民権運動に満足せずに平等社会の実現を目指したことは評価に値するものであるとしている。
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思想と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 01:59 UTC 版)
一遍は時衆を率いて遊行(ゆぎょう)を続け、民衆(下人や非人も含む)を踊り念仏と賦算(ふさん)とで極楽浄土へと導いた。その教理は他力による「十一不二」に代表され、平生をつねに臨終の時と心得て、念仏する臨命終時衆である。踊り念仏に関して、一遍は「念仏が阿弥陀の教えと聞くだけで踊りたくなるうれしさなのだ」と説いた。 阿弥陀仏以外の地蔵菩薩や薬師如来などを信ずることは雑修とする立場であったが、「聖絵」によれば一遍は14の神社に参詣して結縁した。一遍の神祇観は「専ら神明の威を仰ぎて、本地の徳を軽んずることなかれ」との言に代表され、神明すなわち日本の神をあがめ、神の本地である仏の徳を拝することは専修念仏の妨げとはならないというものであり、熊野権現の神託や鹿児島神宮(大隅正八幡宮)での神詠も受け入れた。 浄土教の深奥をきわめたと柳宗悦に高く評せられるが、当人は観念的な思惟よりも、ひたすら六字の念仏を称える実践に価値を置いた。念仏を唱えれば阿弥陀仏の本願により往生可能であり、一遍が関わる人のみならず、ひとりでも多くの人が往生できるように(一切衆生決定往生)との願いを込めた安心の六八の弘誓(ぐぜい)「南無阿弥陀仏 決定往生六十万人」を賦算した。「六十万人」とは一遍作の頌「六字名号一遍法 十界依正一遍躰 万行離念一遍証 人中上上妙好華」の最初の文字を集めたものであり、一切衆生の名であり、まず60万人の衆生に賦算し、しかる後にさらなる60万人に賦算を繰り返すということであり、一遍製作の算を受け取り勧進帳に記名した入信者数は250万人に達したという。大橋俊雄はこの算を一遍が極楽往生を保証する浄土行きの電車の切符と例えた。 寺院に依存しない一所不住の諸国遊行や、「我が化導 は一期ばかりぞ」との信条を貫き、入寂の13日前の正応2年8月10日の朝に所持していた書籍のうち少数を書写山の僧に託して奉納した後、手許に残した自著及び所持書籍すべてを「阿弥陀経」を読み上げながら自ら焼却し、「一代聖教皆尽きて南無阿弥陀仏に成り果てぬ」と宣言して教学体系を残さなかったという伝記 から、その高潔さに惹かれる現代人は多い。 和歌や和讃によるわかりやすい教化や信不信・浄不浄を問わない念仏勧進は、仏教を庶民のものとする大いなる契機となった。いわゆる鎌倉新仏教の祖師の中で、唯一比叡山で修学した経験のない人物であり(『一遍上人年譜略』の記述は後世のものと考えられる。「西の叡山」書写山には登っている)、官僧ではなく私度僧から聖(ひじり)に至る民間宗教者の系統に属することが指摘できる。 一遍の踊念仏は他の修行者の遊行とは違い、見世物興業に近い。人の集まる地域に「踊り屋」という一段高いステージを設け、男女の踊り手(一遍の同行者は20から40人おり、ほぼ半数は尼僧だった)が輪になって歌い踊り、やがて観客を巻き込んで法悦に至る趣向だった。その過激な狂乱状態は保守的な人々からは反発を受けた。例えば六条有房の『野守鏡』では、法悦状態で服を脱ぎ罵詈雑言を叫ぶ踊念仏の見苦しさに対する強烈な批判が述べられている。
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思想と評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/20 09:39 UTC 版)
「オットー・フリードリッヒ・ボルノウ」の記事における「思想と評価」の解説
彼の思想の特徴は、理性とロマン主義、生の哲学と実存主義といった相対立する概念・思想の一方を排するのではなく、その両者の緊張関係を維持しながら、自らの思想を新たな危険にさらす開かれた態度にあるとされ、それはあたかも「二つの椅子の間に座る」ようであるとされた。 第二次世界大戦中、ヘルマン・ノールと彼の弟子たちは、リベラルな志向を持っていたためほとんどが教職を追放されるか、イギリスなどに亡命したが、彼はマインツ大学の教職に留まり、戦後、テュービンゲン大学に移り、退職するまでそこで教鞭をとった。大戦中に特筆することがあるとすれば、彼は精神的遺書を作ることを決心し『気分の本質』を書き上げ、ハイデッガーの「現存在の分析論」に対立しながら、「哲学的な人間学」の原理を展開している。1943年に陸軍へ召集され、自動車部隊や砲兵隊などを転々とした後にミュンヘン近郊の研究所へ物理学者として配属された。この間哲学からは断絶させられている。 彼は、ハイデッガーの死へ向けての存在に教育学という立場から反論し、家や庇護された空間を人を支える根拠として提案し、教育学ではこれを基礎に「教育的雰囲気」という概念を考え出した。今日、ケアリングという考え方の先駆をなすものではないかという彼の再評価の動きもある。彼の空間論(『人間と空間』)、気分論(『気分の本質』筑摩書房)は、教育学以上に、建築学の世界でよく読まれている。
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