平安時代~鎌倉時代
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平安時代前期、当地にも本格的な律令支配が及び、その後、現在の安芸郡府中町に国府が移ったとされる。当市域の大部分は安芸国の賀茂郡、豊田郡に属したが、一部(現在の豊栄町飯田、豊栄町吉原)は備後国世羅郡に属した。 以後、賀茂郡と豊田郡の境界は幾度か変更されているが、現在の市域は(備後国に属した地区も含めて)すべて賀茂郡に属した期間を有する。平安時代から鎌倉時代にかけては東西条は国衙領であったが、仁治3年(1242年)宣陽門院下文をもって東寺に寄付され東寺の経営となる。また、造賀、志和、高屋などにも荘園が形成され、鎌倉幕府の誕生、承久の乱を経て東国の武士たちがこれらの荘園の地頭に任命された。高屋の地頭となり土着して白山城を居城とし造賀にまで勢力を伸ばした平賀氏、志和の地頭となり土着した天野氏などが知られる。東西条は守護領となったようで、地頭は置かれなかった。
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平安時代 - 鎌倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 18:25 UTC 版)
家紋の起源は古く平安時代後期にまで遡る。奈良時代から調度や器物には装飾目的として様々な文様が描かれてきたが、平安時代になると次第に調度品に文様を描くことは視覚的な美しさだけでなく、貴族が各家固有の目印として使う特色を帯びてきた。そして平安末期に近づくと、西園寺実季や徳大寺実能といった公家が独自の紋を牛車の胴に付け都大路でその紋を披露して歩き回り始める。これが家紋の起こりであるという説がある。 その後、公家の間で流行し、様々な家紋が生み出されていく。例えば上記の西園寺実季は「鞘絵」を、徳大寺実能は「木瓜」を、菅原一族などは梅紋をといった華美な紋を家紋にしている。しかしながら文様の延長線上としての色彩的な意味合いが強く、鎌倉時代にかけて徐々に、その後の帰属の証明や家紋の意味合いや役割に、発展・変化していった。 武家の家紋は公家よりも遅れ、源平の対立が激化し始めた平安末期に生まれる。戦場において自分の働きを証明、また名を残す自己顕示のため各自が考えた固有の図象を旗幕、幔幕にあしらったことが、その始まりであったと考えられている。源氏が白旗、平氏が赤旗を戦場での敵味方の区別を付けやすくするための認識性のために掲げた。旗に家紋の原型となる紋章を描くことはなかったが、家来である武蔵七党である児玉党は後の児玉の家紋になる「軍配団扇紋」の「唐団扇」を軍旗に描いている。このことから、武家の家紋も公家と同じく平安後期に生まれたと考えられるが、それもわずか数えられるほどで、爆発的に普及し始めるのは鎌倉時代以後となる。鎌倉中期頃にはほとんどの武士は家紋を持ち、家紋の文化は武家社会に定着していたと考えられている。 本格的な合戦が増えた鎌倉時代には、武士にとって武勲を上げる機会が増えた。そのため必然的に敵味方を区別したり、自身の手柄の確認させたりするための手段が必要となり、幔幕や幟旗、馬標や刀の鞘など、ありとあらゆる物場に家紋が入れられた。 公家社会においては武士のように名を上げるために家紋を使用する必要はなかった。そのため室町時代に入る頃には、ほとんど廃れてしまう。そもそも家を識別するために紋章を使用するという発想は武家のものであり、その存在自体が厳格な家格の序列に固定化された公家には、そうした紋章をあえて使用する必然性がなかったのである。したがって公家の家紋は「武家にならって創られた伝統」だという側面が強い。
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平安時代、鎌倉時代
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藤原頼道から師実・師通・忠実と伝領された寒河江荘には、藤原氏の権勢を背景に天皇の勅願寺として慈恩寺の再建がなされた。平安時代の中心的な集落は落衣(寒河江市落衣)が知られ、落衣長者屋敷跡の周辺は落衣千軒と呼ばれる繁栄を見せたという。また、実相院、巨海院、無量院などが長者屋敷を中心として配置された。 保元の乱を経て忠通に受け継がれ、基実から一時平盛子の預かりとなり、盛子の死後は後白河院の預かりともなったが基通に受け継がれ鎌倉時代に入る。『近衛家所領目録』(近衛家文書)によると、寒河江荘は「請所」すなわち、在地領主を請所として一定の得分権、年貢収納権をもつ所領として記載されている。鎌倉時代の請所は文治5年1189年地頭に補任された大江氏である。大江氏は長岡山に観音及び八幡神を勧請するとともに荘内に居館の整備を進め、寒河江荘の中心はやがて落衣から寒河江(寒河江市丸内など)へと移っていく。 建久3年(1192年)地頭職は惣領である大江親広に相続され、以後親広の子孫(寒河江氏)に相続されていくが、鎌倉時代には寒河江川北岸地域が北条氏領となる(北寒河江荘)。北寒河江荘のうち五ヶ郷(吉田・堀口・三曹司・両所・窪目)の地頭職は北条時宗の正室覚山尼によって鎌倉円覚寺に寄進されたという。一方荘園主は基通以後、家実・兼経・基平と伝領された。 寒河江市の慈恩寺は寺伝によれば、鳥羽上皇の勅宣により天仁元年(1108年)および仁平年間(1151年~1153年)に再建されたとあり、また文治元年(1185年)後白河法皇の院宣と源頼朝の下文により、瑞宝山の山号を賜っている。これは、寒河江荘の荘園主が藤原摂関家であった影響と考えられる。
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平安時代、鎌倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/21 03:35 UTC 版)
藤原師通から忠実、忠通、基実と伝領された荘園は、基通の頃に鎌倉時代へと入る。この時代に地頭を務めたのは中条氏であり、建長3年(1251年)小田島五郎左衛門尉義春は将軍家鶴岡八幡参宮随兵を務めた。しかし、鎌倉末期には北条氏領となっていたようである。
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平安時代・鎌倉時代
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詳細は「畠山氏 (平姓)」および「岩松氏」を参照 坂東八平氏の一族・秩父重弘の子である秩父重能が武蔵国男衾郡畠山郷(はたけやまごう、現在の埼玉県深谷市畠山周辺)に所領を得て畠山姓を称したことに始まる(平姓畠山家)。治承・寿永の乱において、その子畠山重忠は、はじめは平家方についたが後に源頼朝に従い、一ノ谷の戦いや奥州合戦などで活躍した。重忠はのちに北条時政と対立し、元久2年(1205年)に武蔵国二俣川で北条義時の軍との戦闘で敗死した(畠山重忠の乱)。 その後、重忠の旧領と畠山の名跡は、足利義兼の庶長子・足利義純が重忠の未亡人である北条時政女と婚姻し、継承された。義純はもともと新田義兼(足利義兼と同諱の従兄弟)の娘と婚姻し子も儲(もう)けていたが、その妻子を義絶した上での継承であった。これによって桓武平氏のひとつ秩父平氏の流れをくむ平姓畠山氏は消滅し、清和源氏のひとつ河内源氏の一系・足利家の一門として存続することとなった。 義純の家系(源姓畠山家)は名門・畠山家の名跡を継承したことから、後に足利一門の中で別家扱いの足利尾張家(武衛家、いわゆる斯波家)に次いで高い序列に列せられ、細川家など他の家臣筋分家とは異なる待遇を足利宗家から受けることになる。 紀伊および河内・越中の守護をおおむね務め、分家は能登守護を務めた。
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平安時代・鎌倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/06 19:34 UTC 版)
桓武平氏流坂東八平氏一門の秩父平氏に仕える。秩父平氏は平将恒を祖とし、平将門の娘春姫の血筋をひき、源平合戦では源氏方で功績を挙げて元暦元年(1184年)に惣領重頼の娘、京姫(郷御前)は源義経の正室に迎えられている。
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平安時代・鎌倉時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/25 03:29 UTC 版)
伴助高 三河半国総追捕使兼八名・設楽郡の領主。伴六介と号す。宇利富永の地を領し、「設楽伴別当」と号す。 設楽資兼 伴助兼。伴助高の子。「設楽大夫」と号す。 設楽資時 設楽四郎。三州設楽の祖。文治5年(1189年)源頼朝が奥州において藤原泰衡を討伐のとき、栗原合戦に進み、面を切られ敵を打つ。よって勲賞に預かる。 設楽太郎兵衛入道 三河守護足利氏の被官として永仁年間(1293年 - 1298年)頃の『足利氏所領奉行番文』に記されている(『倉持文書』『栃木県史史料編』)。 設楽五郎左衛門尉 『太平記』巻第九「六波羅攻事」に、元弘3年(1333年)斎藤玄基翁との馬上組討をしたことが記されている。
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