市場の独占
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 07:04 UTC 版)
「ジョン・ロックフェラー」の記事における「市場の独占」の解説
スタンダード・オイルは徐々に水平統合を達成し、それによってアメリカでの石油の精製と販売をほぼ支配下におさめた。灯油市場では、古い流通システムを自前の垂直システムに置き換えた。タンク車で各地に灯油を運び、タンクワゴンで小売りの顧客に提供した。それにより卸売りの既存のネットワークを迂回した。灯油の品質が向上し価格が下がったにも関わらず(同社が解体されるまでに灯油の小売り価格は80%も低下した)、スタンダード・オイルの商慣行は激しい議論を巻き起こした。競争相手に対するスタンダード・オイルの最も強力な武器は、低価格と顧客によって異なる価格設定、交通機関による秘密の輸送費割引だった。ジャーナリストや政治家が同社の独占的手法を攻撃し、反トラスト運動が盛り上がった。1880年の New York World 紙は同社を「これまで我が国に根付いた、最も残酷で、厚かましく、無慈悲な独占」と評した。批判に対してロックフェラーは「我々のような大規模なビジネスでは…我々の知らないところで行われることもある。我々はそれらを知ったらすぐさま是正する」と応じた。 当時「法人化した企業は、法人格の付与を行った州の外では資産が所有できない」という法的障害を抱えていた。そのため、ロックフェラーたちは各州に個別に経営される会社を所有しており、全体の管理がやりにくい状態だった。1882年、ロックフェラーの顧問弁護士だったサミュエル・ドッド(英語版)は、彼らの資産を集中化する革新的な企業形態を考案し、スタンダード・オイル・トラストを誕生させた。「トラスト」は企業群の企業であり、その巨大さと富は多くの注意を惹きつけた。会社群の株式を受託者に預託し、株式を共通化、その預託者による理事会を創設して巨大なグループにまとめたものである。このトラストではロックフェラーを含む9人の理事が41の企業を経営した。さらに、グループ経営を円滑にするために経営委員会を設置した。この経営委員会が理事会に代って、グループの実際の経営を行った。この委員会の下には、輸送やパイプラインなどを担当する専門委員会があった。一般大衆と報道機関はこの新しい法人形態を怪しんだが、他の企業はこのアイデアに飛びつき、それによってさらに世論が燃え上がった。スタンダード・オイルは無敵な雰囲気を漂わせるようになり、競争相手や批判者や政敵に対して常に優位に立つようになった。世界的にも最も巨大で裕福で恐れられる企業となり、好景気と不景気の波にも影響されずに一貫して利益を生み出すようになった。 アメリカ国内に2万の油井、4千マイルのパイプライン、5千台のタンク車、10万人以上の従業員を抱える巨大帝国となった。石油精製の世界シェアは絶頂期に90%に達したが、その後徐々に80%にまで低下していった。トラストを結成し敵がいなくなったにも関わらず、1880年代のスタンダード・オイルは世界の石油市場を支配する絶頂期から衰退しはじめた。ロックフェラーは世界中の石油精製を支配する夢をあきらめ、後に「我々が実際に石油産業を完全に支配していたら、世論がそれに反発していただろうということに気付いた」と認めている。海外の競合企業設立や海外での油田発見により、スタンダード・オイルの優位が徐々に崩れていった。1880年代初め、ロックフェラーは最も重要な革新を生み出した。すなわち、原油価格を直接操作するのではなく、市場の状況に合わせて石油の保管料を操作することで間接的に制御するようにしたのである。さらにパイプライン内の石油に対して証明書を発行。この証明書は投機家による売買対象となり、事実上の石油先物市場が形成され、石油価格がそこで決定されるようになった。1882年後半、石油先物取引を容易にするため、マンハッタンに National Petroleum Exchange が創設された。 1880年代、世界の原油の85%はペンシルベニア産だったが、ロシアやアジアの油田からの石油が世界市場に出回り始めた。ロベルト・ノーベル(英語版)は埋蔵量の豊富なロシアの油田に石油精製会社を作り、パイプラインやタンカーも備えるようになっていった。パリのロスチャイルド家も石油事業への投資に乗り出した。さらにビルマやジャワでも油田が発見された。さらに白熱電球が発明され、照明目的で灯油を燃やすことが減っていった。スタンダード・オイルはそれでも状況に適応すべくヨーロッパに進出し、アメリカでは天然ガスの生産を手がけ、自動車向けにそれまで使い道がほとんどなかったガソリンを増産した。 スタンダード・オイルはニューヨークに本社を移転し、ロックフェラーはニューヨーク実業界の中心人物となった。1884年、ウィリアム・ヘンリー・ヴァンダービルトなど富豪が多く住む54番街に自宅を構える。街を歩けば慈善活動を嘆願する者が常に群がり、生命の危険もあったが、毎日オフィスまで列車で通った。1887年議会は州際通商委員会を創設し、鉄道貨物運賃の統一を強制したが、そのころにはスタンダード・オイルの石油輸送の中心はパイプラインになっていた。さらに1890年にシャーマン法が成立してスタンダード・オイルへの大きな脅威となり、最終的にスタンダード・オイル・トラストが解体される主要因となった。特にオハイオ州は反トラスト法の適用を厳しく実施し、スタンダード・オイル・オブ・オハイオは1892年にトラストから分離されることになり、トラスト解体の端緒となった。しかし、1889年にニュージャージー州で州内の法人が他の法人の株式の所有を認める法律が成立したため、この法律を使い再編成が可能となった。それはトラストを解体し、ニュージャージー・スタンダード・オイル社に全米にある系列会社の株式の全部又は大部分を所有させ、合法的な持株会社にすることであった。この再編成の結果、全国規模の事業展開が可能になる上、トラストに対する攻撃に対しての緊急避難口となった。 1890年代に入ると鉄鉱山と鉄鉱石の輸送に事業を拡大し、鉄鋼王アンドリュー・カーネギーと衝突するようになり、新聞などで彼らの対立がよく報道されるようになった。また、ペンシルベニアの原油産出量が減少してきたため、オハイオ、インディアナ、ウェストバージニアの原油生産拠点を買い漁り始めた。この急激な事業拡大の時期に、ロックフェラーは引退を考え始めている。トラストの日常の経営はジョン・ダスティン・アーチボルド(英語版)に任せ、ニューヨーク市の北に新たな邸宅を購入し、自転車やゴルフなどに興じる悠々自適な生活を送るようになった。 大統領に昇格したセオドア・ルーズベルトはシャーマン法違反訴訟をいくつも起こし、議会から改革案を引き出した。1901年、カーネギーの鉄鋼関連資産を引き継いだUSスチールの実権を、ジョン・モルガンが握るようになり、スタンダード・オイルの鉄関連事業もUSスチールに売却された。この取引を仲介したのはヘンリー・クレイ・フリック(英語版)で、スタンダード・オイルの鉄関連事業とUSスチールの株式を交換し、ロックフェラーとその息子がUSスチールの取締役に就任している。1902年、63歳で正式に引退したとき、投資により5800万ドル以上を得た。 しかし、スタンダード・オイルに対する批判や訴訟は依然として多く、特に1904年のイーダ・ターベルによる『スタンダード・オイルの歴史 The History of the Standard Oil Company』出版後にはその攻撃の声は高まった。その本では、同社のスパイ活動、価格操作、強引なマーケティング戦術、訴訟回避の戦術などを暴露している。ターベルはその反響の大きさに驚いた。彼女の父はサウス・インプルーブメント・カンパニーの件で石油事業から撤退したという経歴を持っていた。 ロックフェラーはターベルについて公には「その思い違いをしている女性について言うことは何もない」と発言。一方で彼と会社のイメージを改善するキャンペーンを開始した。長年、報道機関には沈黙を保つという方針だったが、「資本家と労働者はどちらも荒々しい力を持っており、何らかの制限を加える知的な立法が必要である」というようなコメントを発するようになった。 1908年には回想録を出版している。批評家はその回想録がきれいに取り繕われたもので、「事業成功の潜在的な必須の要因は、高度な取引についての法律に従うことだ」などという文言はロックフェラーのビジネスの実態とはかけ離れているとした。 ロックフェラーは1911年まで名目上の社長の肩書きを保ち、持ち株も保持していた。ついに1911年5月15日にアメリカ合衆国最高裁判所は、スタンダード・オイル(64%の市場占有率を保持した)がシャーマン法に違反しているとの判決を下した。その時点で同社は石油精製市場の70%を占めていたが、アメリカでの原油供給量の14%しか握っていなかった。最高裁はトラストが不法に市場を独占しているとして解体命令を下し、同社はおよそ37の新会社に分割された。現在のコノコフィリップスの一部となったコノコ、BPの一部となったアモコ、エクソンモービルの一部となったエッソとモービル、シェブロン、ペンゾイルといった石油企業は、旧スタンダード・オイルが前身になっている。 解体された時点でロックフェラーはスタンダード・オイルの25%以上の株式を所有していた。彼も含め株主は分離後の各社の株式を元々の株式の割合の分だけ得ている。ロックフェラーの石油業界への影響力は減退したが、その後10年間で各社の株式から多大な利益を得ている。それらの会社の価値の合計は解体前の5倍に膨れ上がり、ロックフェラーの個人資産は9億ドルに膨れ上がった。
※この「市場の独占」の解説は、「ジョン・ロックフェラー」の解説の一部です。
「市場の独占」を含む「ジョン・ロックフェラー」の記事については、「ジョン・ロックフェラー」の概要を参照ください。
- 市場の独占のページへのリンク