室町・江戸時代
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鎌倉末期から南北朝が合一に至るまで日本全土に争乱が続く中、大勢力となっていた高野山に南北朝両勢力より協力要請などの働きかけがあったが、高野山は一貫して中立を保っていたため、南朝の後醍醐天皇が1334年に愛染堂を寄進、また南北朝統一後すぐに北朝方の足利尊氏は高野山の段銭や諸役の免除、寺領への守護不入の権利を与え手厚く庇護した。その後、足利尊氏、義満が高野参詣し、室町幕府とも良好な関係が続く。 高野山の教学を二分する学侶方勢力の宝性院院主の宥快は「宝門」、無量寿院院主の長覚は「寿門」という学派を組織し、応永19年(1412年)頃に「応永の大成」とよばれる教学の組織改編を推し進め、その結果、真言密教教学の確立にともなって、高野山の主導権が学侶方にあるべきとの風潮が高まった。この学侶の二大勢力は、その後も塔頭寺院筆頭格として江戸時代まで続き、明治時代に両院は合併し、宝寿院となった。しだいに学侶と行人との対立は深まり、寛正5年(1464年)には学侶方と高野山の実務を行ってきた行人方と合戦が行われた。また、この頃の高野聖は密教教学から離れて時宗化し、また禁止されていた鳴り物を使った踊り念仏、鉦叩きを別所(本拠地を離れた所に営まれた聖が集まって修行するための庵や仏堂を設けた場所)で行っていたため、それら行為を学侶方から禁止され、学侶、行人、聖の対立が表面化する。またこの頃の聖の中には、利潤追求のためだけの宿坊経営や高野山を利用した商売を行う者、また諸国を遍歴していた者による他人の妻・娘をかどわかしたりする問題行為も絶えなかったと伝わる。 永正18年(1521年)には大火により大塔、金堂以下伽藍300余宇、僧坊など3900余宇を焼失し、全山が壊滅状態となり高野山は著しく衰退する。高野聖は熱心な諸国遍歴で勧進を続け、弘法大師信仰は急速に庶民の間にも広がっていったが、戦国の世のため、なかなか伽藍復興には結びつかなかった。そこで高野山は有力大名との間で師壇関係や宿坊契約を結ぶことで、高野山への宝物寄進や奥之院への納骨・納髪、石塔建設が盛んとなった。この頃は武士の間で高野山信仰が広まり、戦国大名が寄進した子院が数多く作られた。例えば子院で宿坊の高室院は鎌倉時代の創建であるが、小田原北条氏が壇越(スポンサー)となり、北条氏の菩提寺となった。同寺院は北条氏の領国である武蔵・相模・伊豆三国を布教地域としていた。のち北条氏が滅ぶと、当主の北条氏直は高室院に隠棲して生涯を終えている。 戦国時代の高野山は寺領17万石、3万の僧兵を擁す巨大勢力であったため、織田信長の標的の一つであったが、天正8年(1580年)に織田信長に謀反を起こした荒木村重が家臣数人とともに高野山へ逃げ込んだため、信長家臣三十数名が取り調べに高野山へ来たが、行人方山徒が足軽達は捜索ではなく乱暴狼藉を働いたという理由で誅殺してしまう。激怒した信長は畿内を巡遊していた高野聖1383人を捉え惨殺し、さらに数万の軍勢で高野山攻めが行われた。しかし、ほどなく信長が本能寺の変で倒れたため、高野山は取り敢えずの難を免れた。しかし豊臣秀吉は、根来攻めに引き続き、高野山に使者を派遣し寺領の返還や武装解除を迫るなどの条件をだし降伏を勧めた。当時高野山にいた武士出身の僧・木食応其が仲介者となって秀吉に武装解除などの服従を誓ったため、石高は減らされたものの、高野山は存続することができた。のちに秀吉は応其を強く信頼し帰依するようになり、最終的に2万1000石の寺領が安堵され、秀吉は永正18年(1521年)に消失した伽藍の大塔、金堂など25棟の堂宇の再建に協力し、興山寺や母・大政所の菩提のために青巌寺(豊臣秀次が自刃した場所としても知られ、現在の総本山金剛峯寺の前身である)を建て高野山を庇護することとなった。応其は、秀吉の高野山攻めを阻止しただけでなく、秀吉の信頼を得、庇護につなげたため、「高野は応其にしてならず」と言わしめたと伝わる。 文禄3年(1594年)徳川家が子院の蓮華院に大徳院という院号を与え、菩提所・宿坊と定めたこともあり、諸大名もこれに見習い、また多くの有力者が高野山の子院と壇縁関係を結び、また奥之院に霊屋、墓碑、供養塔などを建立するようになった。その数は多く、徳川家、及び譜代大名は大徳院と師壇関係を、その他300程度の大名が山内の寺院と師壇関係を結んだとされる。徳川幕府も高野山に寺領を2万1000石を安堵したが、その内訳は慶長6年(1601年)に得た朱印状の寺領安堵状によると、学侶方に9500石の寺領、行人方に11500石の寺領が分け与えられた。しかし聖方には寺領は与えられず、家光の時代に聖方の大徳院境内にあった徳川家霊台の祭祀料として支給された200石のみであった。この朱印状により、高野山の寺領管理は、学侶方・行人方に分けて任されることとなった。しかし、学侶方の宝性院、無量寿院の門主には十万石の大名の格式での江戸への参勤交代を義務づけ、高野山が幕藩体制に組み込まれることとなった。この頃、時宗化していた聖(時宗聖)は大徳院の院号の権威で勢いをまし、学侶、行人方と同じ屋形作りで破風に狐格子の院を構えたところ、行人方の反感をかい、慶長11年(1606年)に行人方は大徳院を襲撃し狐格子を壊したが、聖方が家康に訴えたところ、幕府からの裁定が下り、行人は時宗聖方の屋造りに干渉せぬこと、時宗聖方は時宗を改めて真言宗に帰入することが定められた。この後、聖方は大徳院の聖方に留まる者と、行人方に転派するものに分かれ、事実上の高野聖の終焉となった。また幕府により遊芸者や諸国を遍歴する勧進僧は厳しく取り締まられ、今までのような高野聖としての役目を全うすることが難しくなり、全国を遍歴していた聖は、日本全国各地の村落にある小堂・小庵に定着するようになった。そのことで全国各地に大師堂や弘法大使を信仰する寺が造られ、庶民も気軽に先祖供養が行なえるようになったと考えられている。 正保3年(1646年)の「御公儀上一山図」によると山内院家数は最盛期の1600年代中頃で、学侶方210院、行人方1440院、聖方120院、客僧坊42院、その他53院の1865院と記録されている。幕府の力は強大で、元禄高野騒動といわれる学侶方と行人方の権力闘争の結果、元禄5年(1692年)に幕府が裁定を下し、従わなかった行人627人を流刑にし、行人方の坊を280坊にまで減らし、以後増えることは無く、完全に幕藩体制に組み込まれていたことが伺える。元禄年間(1688年 - 1704年)の頃から庶民の参詣が増加したのに伴い、高野山内に僧侶以外の職人や町人が多く常住するようになっていた。
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