天敵による捕食とDDTの散布
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「八丈小島のマレー糸状虫症」の記事における「天敵による捕食とDDTの散布」の解説
八丈小島のバクと呼ばれた奇病の正体は、トウゴウヤブカがマレー糸状虫を媒介するリンパ系フィラリア症であると判明した。しかもスパトニンという新たな駆虫薬で治療可能な段階に入った。 フィラリア虫が蚊を媒介者とするライフサイクルを持っている以上、蚊およびボウフラを全滅させることが一番確実な方法である。とはいえ、小さな離島であっても蚊やボウフラを全滅させるのは現実的に難しい。しかし、一時的に蚊を減らすことができればその期間中の新たな感染は防げるはずで、スパトニンの服用と蚊の駆除対策を同時進行で数年間根気強く継続すれば、いずれ近い将来、病気をなくすことができるかもしれない。佐々ら伝研のメンバーは島民らのスパトニン服用(マレー糸状虫の駆虫)と併行して、大掛かりな媒介蚊の駆除作戦を計画実行した。 1956年(昭和31年)8月5日から15日にかけ、佐々ら伝研関係者は9回目となる八丈小島上陸調査に出向いた。今回は通常の臨床検査に加え媒介蚊の駆除という大きな目的があった。 この計画は大掛かりな準備の下、 天敵による捕食 DDTの散布 大きく分けてこの2つの方法で実行された。 天敵の利用はボウフラ対策として有効な方法であり、佐々が2回目に来島した1950年(昭和25年)5月、既に鳥打村のとある家の天水桶へ3匹の金魚を放していた。しかし、金魚などの淡水魚を東京から遥か離れた絶海の孤島へ生きたまま運ぶのは非常に困難で、2回目に放たれた3匹の金魚以来、天敵の利用は行われていなかった。今回、伝研のメンバーは意を決して金魚50匹、メダカ200匹を大きなバケツに入れ、東京の竹芝桟橋から八丈島行きの定期船に詰め込んだが、八丈島から八丈小島へ金魚とメダカを運ぶのは大変で、八重根港から八丈小島の船着き場まで小舟で渡る2時間は、荒波の中を水がこぼれないよう3人がかりでバケツを押さえ続けたという。鳥打の船着き場からは島の青年たちが集落まで重いバケツを担いで登った。 久し振りの佐々の来島を八丈小島の島民たちは大歓迎で迎え、恒例の歓迎会に続いて早速一行はその夜、採血検査を行ったが、感染率は以前の調査時とあまり変化が無かった。これにはある理由があった。 八丈小島におけるマレー糸状虫ミクロフィラリア検出成績。検査/年月1950年5月1950年9月1951年8月1952年5月1952年9月1956年8月1956年12月検査人員93 74 67 88 49 66 66 陽性者29 12 14 11 11 22 19 陽性率/%〔ママ〕31.5 16.2 20.8 16.4 22.4 33.3 28.8 前述したようにスパトニンを10日以上連続して服用すれば体内のミクロフィラリアは死滅する。したがって保虫者の全員が一様に10日以上連用すれば、当該地域でのマレー糸状虫症の根絶が期待できるが、実際には難しい問題があった。例えば服用後のミツレル様熱発作の誘発に一部の島民が恐れを抱いていること、また、まったく無症状(潜伏期)の保虫者が薬を飲むことに対して抵抗感を持つなど、その普及には心理的な障害があったのである。だからこそ住民のスパトニン服用だけではなく、それと連動して蚊やボウフラの駆除による感染源対策が必要であった。 各戸のコンクリートタンクや天水桶を確認すると相変わらず物凄い数のボウフラが湧いていたが、6年前に佐々が3匹の金魚を放した桶にはボウフラは湧いておらず、当時2センチ足らずであった金魚が15センチ程に成長していた。コンクリートタンクの大型のものは幅8メートル、深さ3メートルに及ぶものもあり、鳥打村全戸ではこのようなタンクが31個作られていた。佐々は1つのタンクに金魚2匹、メダカ5匹の割合で放した。メダカを見たことのない島の子供たちの歓声の中、ボウフラは次々に食べられていった。 もう一つの駆虫対策であるDDTの散布は大掛かりなものであった。DDTとはdichloro-diphenyl-trichloroethane(ジクロロジフェニルトリクロロエタン)の略で、有機塩素系の殺虫剤であるが、人体への有害性が問題となり1971年(昭和46年)以降、日本国内では製造および使用が禁止されている。しかし、八丈小島で散布が行われた1951年(昭和31年)頃にはそれらの有害性が広く認知されておらず、DDTは主に農業用の殺虫剤として使用されていた。八丈小島で使用されたDDTの粉末総量1トンは金魚やメダカと同じ定期船で八丈島経由で八丈小島まで運ばれた。 前述したように八丈小島でのボウフラ発生源はコンクリートタンクなどの天水桶と、海岸の溶岩地帯に無数に存在するロックプールであった。このうち集落内のDDT散布は人の手で充分可能であるが、推定8万平方メートルほどの溶岩地帯(岩場)は大小さまざまな凸凹のある険しい地形であるため、人の手による散布は困難であった。 ちょうどその1か月ほど前、佐々はバンクロフト糸状虫を調査するため、鹿児島県の奄美大島に滞在していた。おりしも、取材に来ていたNHK科学班長の村野賢哉と名瀬市の食堂で昼食を食べながら八丈小島の話題になった際、ひとつ応援しましょうと村野から申し出があり、NHKのヘリコプターを利用したDDTの空中散布が行われることになった。 ロックプールへの空中散布に使用された薬剤は10パーセントDDT粉剤で、DDT協会の斡旋により、日本曹達、味の素、呉羽化学(現クレハ)、大阪化成、旭硝子(現AGC)の各社より提供された。使用した機材は日本ヘリコプター所属のベル47で、東京から伊豆大島、三宅島を経由し、八丈島飛行場(現八丈島空港)を基地として、DDT粉剤を搭載し八丈小島のロックプールへ向かった。 DDT搭載量は1回あたり90キログラムずつ2回行われ、計180キログラムのDDT粉剤が散布された。空中散布が行われたのは1956年(昭和31年)8月9日の午前9時から10時の間で、風速は4メートルから6メートル、気温摂氏28度、天候は快晴であった。ヘリコプターの翼圧によって粉剤はよく地表に叩きつけられ、岩場全体にほぼ均一に散布された。トウゴウヤブカのボウフラは1時間後には既に中毒の症状を起こし、7時間後、24時間後と観察を続けた結果、ロックプール一帯のボウフラはほぼ全滅したことが確認された。 続いて人の手による鳥打村集落内へのDDT散布が行われたが、こちらは主に成虫である蚊に対して行われた。もちろん生活用水となっている天水にDDTがかからないよう、天水桶やタンクなどにはしっかりとフタがされた。佐々らが行ったのはDDTの残留噴霧という散布方法であった。この方法がマラリアの予防に顕著な成果をもたらしたこと(DDT#イタリアにおけるDDT屋内残留噴霧(マラリア根絶を目的としたもの)参照)は、寄生虫学者や公衆衛生学者の間で知られ始めており、フィラリア駆除対策においても同様の成果が期待され、佐々は八丈小島においてこれを実行したいと考え、鳥打村の人家30軒あまりと、役場や小中学校など1軒残らず屋内残留噴霧法によるDDT散布を行い、村中の家の内壁や天井などが真っ白になった。 これまで八丈小島では殺虫剤の類はまったく使用されたことがなかったため、殺虫効果はてきめんで、DDT散布の当日から蚊もハエも見られなくなったが、これは1度だけの散布であり殺虫効果は一時的なものであった。 後に島民が語ったところによれば、10月末頃までは蚊もハエもいない状態が続いたが、それ以降徐々に出現し始めたという。同年12月に林が再調査に訪れた際には集落内の蚊だけでなく、海岸のロックプールにも再びボウフラが湧き始めていた。予想されてはいたが、DDT散布の効果は一時的なものであることが確認された。
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