国芳画廊
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画像-1:『相馬の古内裏』 弘化2-3年(1845-1846年)頃。文化3年(1806年)に刊行された山東京伝の読本『善知安方忠義伝』に取材。平将門の遺児滝夜叉姫(五月姫)は、弟の平良門と共に、筑波山に住む蝦蟇の精霊肉芝仙から妖術を授かり、将門が猿島郡相馬に御所を模して築き、乱の後廃墟となった「相馬の古内裏」を巣窟に徒党を組み、亡父の遺志を継ぎ謀反を企てる。それを討とうとする源頼信の臣大宅太郎光圀が、滝夜叉姫の従者荒井丸と一戦を交えたところに姫が操る巨大な骸骨が御簾を破って現れる。原作では数百の骸骨と戦うと描かれたところを、一体の巨大なものへ翻案、更に三枚続は1片でも成立するよう描くのが慣例のところを、画面いっぱいに骸骨を描き込むなど国芳が得意とした大胆な構図が特徴である。また、骸骨の描写は学術的にもかなり正確になされていることから、国芳は西洋の解剖学に関する書物を参考にしたものと考えられている。 画像-2:『宇治川合戦之図』 先陣を競う梶原景季(左)と佐々木高綱(中央)。武者絵。 画像-3:『赤澤山大相撲』 近隣の武将が集まった狩猟後の余興で、赤沢山で宴を催し、その余興で相撲を始めた。そこで股野五郎景久が21人連続で勝ち抜き得意になっていたところ、河津三郎祐親が二番続けて股野を投げ飛ばす。その技は河津掛けと呼ばれ後世に伝わった。その後河津は工藤祐経に矢を射られ落命、その遺児は曾我に引き取られ曾我兄弟の仇討ちへと続く。改印は安政5年(1858年)出版だが、作画時期は少し早く安政初期と見られる。 画像-4:『大山石尊良辧瀧之図』 文政2年(1819年)頃。大山石尊(石尊大権現、現・大山阿夫利神社)の滝に参拝する人々。名所絵。 画像-5:『牛若丸僧正坊隋武術覚図』 嘉永4年(1851年)。鞍馬山にて大天狗の鞍馬山僧正坊(中央)から武術の手解きを受ける源義経(牛若丸。右上)。 画像-6:『義経一代記 五条ノ橋之図』 牛若丸と武蔵坊弁慶、五条ノ橋の闘い。 画像-7:大物浦にて義経主従と戦う平知盛の霊の海中の陣。 画像-8:『大物浦平家の亡霊』 嘉永2-4年(1849-1851年)。同じく、義経主従を襲う平家の亡霊。 画像-9:『戯遊七福神』 安政6年(1859年) 画像-10:『其のまま地口 猫飼好五十三疋』(そのまま-ぢぐち・みやうかいこう-ごじうさんひき)嘉永元年(1848年)。 東海道五十三次の宿場町名を、地口(語呂合わせ)で猫の仕草として描いたもの。順に日本橋は「二本だし(2本の鰹節=出汁)」、品川は「白顔」、川崎は「蒲焼」、神奈川は「嗅ぐ皮」、程ヶ谷は「喉かい」、戸塚は「はつか(二十日鼠)」、藤沢は「ぶちさば(鯖を咥えたぶち猫)」、平塚は子猫が「育つか」、大磯は「(獲物が)重いぞ」、小田原は「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りのどら猫)」、箱根は「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」、三島は「三毛ま(三毛猫は魔物、化け猫)」、沼津は「鯰」、原は「どら(猫)」、吉原は「ぶち腹(腹もぶちだ)」、蒲原は「てんぷら」、由比は「鯛」、興津は「起きず」、江尻は「かぢり」、府中は「夢中」、鞠子は「張り子」、岡部は「赤毛」、藤枝は「ぶち下手(ぶち猫は鼠取が下手だ)」、島田は「(魚が)生だ」、金谷は「(猫の名前が)タマや」、日坂は「食ったか」、掛川は「化け顔」、袋井は「袋い(り)」、見付は「ねつき(寝つき)」、浜松は「鼻熱」、舞坂は「抱いたか」、新居は「洗い」、白須賀は「じゃらすか」、二川は「当てがう」、吉田は「起きた」、御油は「恋」か「来い」、赤坂は「(目指しの)頭か」、藤川は「ぶち籠」、岡崎は「尾が裂け」、池鯉鮒は「器量」、鳴海は「軽身」、宮は「親」、桑名は「食うな」、四日市は「寄ったぶち」、石薬師は「いちゃつき」、庄野は「飼うの」、亀山は「化け尼」、関は「牡蠣」、坂下は「アカの舌」、土山は「ぶち邪魔」、水口は「皆ぶち」、石部は「みじめ」、草津は「炬燵」、大津は「上手」、京は「ぎやう(捕まった鼠の悲鳴)」。 画像-11:『山城国 井手の玉川』 美人画。 画像-12:化け猫 画像-13:『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 弘化4年(1847年)。「大ぜいの人が よつて たかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人のことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ(大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人をこしらえた。兎角、人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)」 寄せ絵。 画像-14:『甲越勇将伝 上杉家廿四将 本庄越前守繁長』 上杉謙信の重臣本庄繁長を描いた武者絵。 画像-15:『山海め伝度図会 津ゞきが見たい 志州西宮白魚(さんかいめでたいずえ つづきがみたい ししゅうにしのみやしらうお)』 美人画の一つ。 画像-16:『禽獣図会 大鵬 海老』 画像-17:『誠忠 義士肖像』より「堀部矢兵衛金丸」 赤穂浪士の一人、堀部矢兵衛(弥兵衛)。武者絵。 画像-18:『猫のけいこ』 天保12年(1841年)。戯画。団扇絵。着物の柄は、師匠は鈴・小判・猫の足跡・目刺が放射線状に並び、裾から覗く裏地はスルメ。手前の弟子はふかひれ、奥は蛸の絞りと猫の好物尽くしである。 画像-19:『荷宝蔵壁のむだ書』 嘉永元年(1848年)頃 画像-20:『人かたまつて人になる』 弘化4年(1847年)頃。「人おほき人の中にも人ぞなき 人になれ人 人になせ人 (人多き人の中にも人ぞ無き 人に成れ人 人に為せ人)」 画像-21:『百人一首之内 山邊赤人』 画像-22:無題(蛸と鯉、岩と魚)。 画像-23:『猫の当字 なまず』 当て字絵。 画像-24:『七津意呂婆東都布地尽 浦橋八十之助(ななついろはとうとふじづくし うらはしやそのすけ)』 役者絵。 画像-25:『開運出世合体七福神』 画像-26:『織田信長の浮世絵』 画像-27:『今川義元の浮世絵』
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