国芳画廊とは? わかりやすく解説

国芳画廊

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/07 01:36 UTC 版)

歌川国芳」の記事における「国芳画廊」の解説

画像-1:『相馬古内裏』 弘化2-3年(1845-1846年)頃。文化3年1806年)に刊行され山東京伝読本善知安方忠義伝』に取材平将門遺児滝夜叉姫五月姫)は、弟の平良門と共に筑波山に住む蝦蟇精霊仙から妖術授かり将門猿島郡相馬御所模して築き乱の後廃墟となった相馬古内裏」を巣窟徒党組み亡父遺志継ぎ謀反企てる。それを討とうとする源頼信の臣大宅太郎光圀が、滝夜叉姫従者荒井丸と一戦交えたところに姫が操る巨大な骸骨御簾破って現れる原作では数百骸骨と戦うと描かれところを、一体の巨大なものへ翻案、更に三枚続は1片でも成立するよう描くのが慣例ところを画面いっぱい骸骨描き込むなど国芳が得意とした大胆な構図特徴である。また、骸骨描写学術的にもかなり正確になされていることから、国芳西洋解剖学に関する書物参考したもの考えられている。 画像-2:『宇治川合戦之図』 先陣競う梶原景季(左)と佐々木高綱中央)。武者絵画像-3:『赤澤山大相撲近隣武将集まった狩猟後の余興で、赤沢山で宴を催し、その余興相撲始めた。そこで股野五郎景久が21連続勝ち抜き得意になっていたところ、河津三郎祐親が二番続けて股野を投げ飛ばす。その技は河津掛け呼ばれ後世伝わったその後河津工藤祐経に矢を射られ落命、その遺児曾我引き取られ曾我兄弟の仇討ちへと続く。改印安政5年1858年出版だが、作画時期は少し早く安政初期と見られる画像-4:『大山石尊良辧瀧之図』 文政2年1819年)頃。大山石尊石尊大権現、現・大山阿夫利神社)の滝に参拝する人々名所絵画像-5:『牛若丸僧正坊隋武術覚図』 嘉永4年1851年)。鞍馬山にて大天狗鞍馬山僧正坊中央)から武術の手解きを受ける源義経牛若丸右上)。 画像-6:『義経一代記 五条之図』 牛若丸武蔵坊弁慶五条闘い画像-7:大物浦にて義経主従と戦う平知盛の霊の海中の陣。 画像-8:『大物浦平家亡霊嘉永2-4年(1849-1851年)。同じく義経主従を襲う平家亡霊画像-9:『戯遊七福神安政6年1859年画像-10:『其のまま地口 飼好五十三疋』(そのまま-ぢぐち・みやうかいこう-ごじうさんひき)嘉永元年1848年)。 東海道五十三次宿場町名を、地口語呂合わせ)で仕草として描いたもの。順に日本橋は「二本だし(2本の鰹節出汁)」、品川は「白顔」、川崎は「蒲焼」、神奈川は「嗅ぐ皮」、程ヶ谷は「喉かい」、戸塚は「はつか(二十日鼠)」、藤沢は「ぶちさば(咥えぶち猫)」、平塚子猫が「育つか」、大磯は「(獲物が)重いぞ」、小田原は「むだどら(鼠に逃げられて無駄走りどら猫)」、箱根は「へこね(鼠に餌を取られてへこ寝する)」、三島は「三毛ま(三毛猫魔物化け猫)」、沼津は「」、原は「どら()」、吉原は「ぶち腹(腹もぶちだ)」、蒲原は「てんぷら」、由比は「」、興津は「起きず」、江尻は「かぢり」、府中は「夢中」、鞠子は「張り子」、岡部は「赤毛」、藤枝は「ぶち下手(ぶち猫鼠取下手だ)」、島田は「(が)生だ」、金谷は「(猫の名前が)タマや」、日坂は「食ったか」、掛川は「化け顔」、袋井は「袋い(り)」、見付は「ねつき(寝つき)」、浜松は「鼻熱」、舞坂は「抱いたか」、新居は「洗い」、白須賀は「じゃらすか」、二川は「当てがう」、吉田は「起きた」、御油は「恋」か「来い」、赤坂は「(目指しの)頭か」、藤川は「ぶち籠」、岡崎は「尾が裂け」、池鯉鮒は「器量」、鳴海は「軽身」、宮は「親」、桑名は「食うな」、四日市は「寄ったぶち」、石薬師は「いちゃつき」、庄野は「飼うの」、亀山は「化け尼」、関は「牡蠣」、坂下は「アカの舌」、土山は「ぶち邪魔」、水口は「皆ぶち」、石部は「みじめ」、草津は「炬燵」、大津は「上手」、京は「ぎやう(捕まった鼠の悲鳴)」。 画像-11:『山城国 井手の玉川美人画画像-12化け猫 画像-13:『みかけハこハゐが とんだいゝ人だ』 弘化4年1847年)。「大ぜいの人が よつて たかつて とふと いゝ人をこしらへた とかく人のことハ 人にしてもらハねバ いゝ人にはならぬ大勢の人が寄ってたかって、とうとう、いい人こしらえた兎角、人の事は人にしてもらわねば、いい人には成らぬ)」 寄せ絵画像-14:『甲越勇将上杉家廿四将 本庄越前守繁長』 上杉謙信重臣本庄繁長描いた武者絵画像-15:『山海め伝度図会 津ゞきが見たい 志州西宮白魚さんかいめでたいずえ つづきがみたい ししゅうにしのみやしらうお)』 美人画一つ画像-16:『禽獣図会 大鵬 海老画像-17:『誠忠 義士肖像』より「堀部兵衛金丸赤穂浪士一人堀部兵衛弥兵衛)。武者絵画像-18:『のけいこ』 天保12年1841年)。戯画団扇絵着物の柄は、師匠は鈴・小判・猫足跡目刺放射線状に並び、裾から覗く裏地スルメ手前弟子ふかひれ、奥は絞り好物尽くしである。 画像-19:『荷宝蔵壁のむだ書嘉永元年1848年)頃 画像-20:『人かたまつて人になる』 弘化4年1847年)頃。「人おほき人の中にも人ぞなき 人になれ人 人になせ人 (人多き人の中にも人ぞ無き 人に成れ人 人為せ人)」 画像-21:『百人一首内 山赤人画像-22無題、岩と)。 画像-23:『当字 なまず』 当て字絵。 画像-24:『七津意呂婆東都布地尽 浦八十之助(ななついろはとうとふじづくし うらはしやそのすけ)』 役者絵画像-25:『開運出世合体七福神画像-26:『織田信長浮世絵画像-27:『今川義元浮世絵

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