国衆一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/17 08:26 UTC 版)
詳細は「肥後国人一揆」を参照 天正15年(1587年)3月に豊臣秀吉の九州征伐が始まると、他の肥後国人同様に秀吉に恭順した。しかし所領は大幅に減らされた。 同年6月、佐々成政が肥後一国の領主に任命され、肥後国人はその与力に組み込まれることになった。成政が差出検地を行おうとすると、これを領知権の侵害として秀吉の朱印状を盾に拒否し、7月には隈府城に籠城した。8月6日、成政が自ら六千の兵力で隈府城を攻めると、同城を放棄して城村城に移る。 国人衆の多くが呼応して挙兵したため、成政は独力で一揆勢を鎮圧することができず、秀吉に援軍要請を行った。九州を唐入りの兵站基地と位置づけていた秀吉は、早期解決を図って九州・四国の大名を総動員して一揆勢を攻撃した。同年末には安国寺恵瓊の勧めで城村城を開け渡し、同時期に田中城も陥落して一揆は鎮圧された。降伏後は筑後国の立花宗茂に預けられ、側近と共に柳川城黒門前で放し討ち(果たし合いによる処刑)にされた。
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