国舅となる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/20 08:08 UTC 版)
9月18日中宗反正に関与し、9月24日に靖国三等功臣となり、功臣等の決議により後宮候補に上がり、淑媛として章敬王后は中宗の後宮に入り、1507年7月26日中宗の本望で王妃となる。7月28日「坡原府院君」に封爵された。8月20日女官を陵辱した韓恂の罷免するように中宗に勧告した。9月13日領敦寧府事となり、10月7日靖国功臣を増員するよう進言している。1508年8月10日朴安性は老齢で自らはその上の席次には在れないと啓上している。また台諫が宗親と銀渓道察訪李叔仁等と共に江原道の山々を遊行していたが、尹汝弼がこれらを推覈したという噂があり、尹汝弼の罪を推考すべきと啓上したが允許されなかった。これには7月13日にも司憲府から再度推考すべきと啓上されるが允許されなかった。1513年11月24日司憲府が尹汝弼等の罪を請うが允許されなかった。 1514年現在に五衛都摠府都摠管となっており、同年の2月2日台諫から中日習射で部将が失敗した際、部将の髪を引っ張り退出させた事で、廷臣としてあるまじき行為だと啓上され、中宗は推考するよう允許した。2月17日司憲府が国舅として不謹慎で、要職に置けないので異動させるべきと啓上があったが、允許されなかった。2月18日午前中の経筵にて大司諫孫仲墩・司憲府持平柳灌・李思鈞が昨日の尹汝弼の件について論じて啓上したが允許されなかった。2月23日午前中の経筵にて司憲府掌令権希孟・司諫院正言南世準・李思鈞が再度尹汝弼の件を論じて啓上し、領経筵事鄭光弼も尹汝弼の件を論じた。鄭光弼の意見は全体的には台諫の意見を助長しているが、中には尹汝弼を擁護している部分があった。中宗は公務上の過失だけで、都摠管から異動させる必要はないと返答した。しかし翌日2月24日中宗は異動を命じた。 1515年4月に尹汝弼が水陸会を設け、蘇世譲・黄汝献が同様に福を迎えようとしていたが、後日に弾劾された。1518年7月7日現在に軍器寺提調の官職にあって、台諫から尹汝弼は無知で軍器寺提調が不適格だと中宗に啓上されたが国舅だとして允許されなかった。7月10日・7月11日・7月14日にも同じ内容の啓上があるが、いずれも允許されなかった。8月8日鄭士龍が前漢の竇広国や後漢の馬援のなどの外戚の政治不介入の前例を挙げ尹汝弼等もこれらと同様にすべきと主張している。1520年5月8日病にかかり急ぎ、慶源府使である子の尹任に手紙を下したいとして、尹任の職を異動させた。1528年11月29日中宗が済川亭に滞在中の際、これを訪ねた。1534年12月10日仲朔宴にて、自らが臣下を代表して酌を受けるのを、謙譲した内容の啓上がある。1539年12月4日中宗が近頃は天災や、事故が多く、宴を開く事が出来なかったとして、尹汝弼等に子馬1匹を下賜した。
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