国粋か普遍か
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「キリスト教とユダヤ教」の記事における「国粋か普遍か」の解説
詳細は「民族宗教」および「世界宗教」を参照 タナハあるいはヘブライ語聖書の主題は、イスラエルの子らの歴史、特に彼らとその神との関係である。したがってユダヤ教は、文化とも文明ともみなされる。再建派創始者のラビ・モルデカイ・カプランMordecai Kaplanはその著書『 Judaism as a Civilization 』で、ユダヤ教は進化する宗教文明だと定義した。その重要な徴候の1つとして、ユダヤ人であるために何かを信じる必要も、行動する必要もないことが挙げられる。「ユダヤ人であること」の歴史的な定義には、ユダヤ人の母から生まれているか、ハラーハーに沿ってユダヤ教に転向することが必要とされる。ただし今日では改革派も再建派もともに、ユダヤ人の父と非ユダヤ人の母との間に生まれた子であっても、ユダヤ人として育てられていれば、それをそのまま受け入れる。 ユダヤ教徒の多くにとってユダヤ人の民族性は、神との関係性と密接に結びついているもので、神学上においても強い構成要素となっている。この関連性を端的に表すのが、ユダヤ人の選民思想である。 慣習を固く守るユダヤ人にとって本来選民とは、神との契約の中にあって、その契約に伴う義務として一定の法にも当然従い、神との契約を選択したイスラエルの子らである。彼らは神の意図とは、理想的な「国の光」「神聖な民族」となること、すなわち神の意志に従って人生を過ごして他への例証となることであって、「神へと至る道」ではないと考える。ユダヤ人にとって救済とは、神から惜しげなく与えられるものであり、法の遵守は神の恵みに応える1つの方法である。 ユダヤ人は、他の国家や民族にはモーセの戒律の遵守を要求したり期待したりしない。しかし例外としてユダヤ教徒の信じる唯一の法律ノアの七つの戒めには、他の国民も来世の席を確約したければ、自然と拘束されることになる。 このように民族宗教としてのユダヤ教は、ノアの七戒に矛盾しない限り、他の宗教にも、神や神聖や救済へとつながる独自の異なった道が存在することを否定しない。 ユダヤ人のアイデンティティーにおいて民族性と文化が大きな意味を持つ一方で、ユダヤ人が自分をユダヤ人だと定義する方法は、一つではない。非宗教的なユダヤ人がいて民族性や文化を基準とする一方で、宗教的なユダヤ人はそれに同意しない。むしろ彼らは、ユダヤ人の定義をユダヤ教の環境で判断している。その流れでいえば、宗教的な転向者は、非宗教的で民族的なユダヤ人と比べて、よりユダヤ人らしいと感じられる。ラビ・カプランがユダヤ教は文明だと定義する一方で、多くの人はそれに同意せず、宗教的な伝統と遵守の千年は、単なる文明以上であると述べている。慣習を固く守るほとんどのユダヤ人は、ユダヤ教は愛の物語だという。 ユダヤ教とキリスト教は、崇拝に値する真の神はただ一人であるという信仰理念を共通して持っている。ユダヤ教ではこの真のただ一人の神を、比類なく、安易に口に出すこともできないほど神聖な存在だと考える。おそらくユダヤ教徒にとっては、「すべての存在の源」「顕在化」「創造主であり命を維持する方」という表現は、神についての一部分を捉えたものにすぎない。神が不変である一方で、神に対する人の認識は変化することから、ユダヤ教徒は神の存在についても新しい経験を受け入れる。キリスト教では、少数の例外を除き、真のただ一人の神は父なる神、子なる神、聖霊なる神という三つの位格を持つ。神は昨日も今日も明日も不変であるため、キリスト教徒は一般的に、神について理解するためにヘブライ語とキリスト教の両方の聖書を読む。 キリスト教の特徴には、その普遍性が挙げられる。現代ユダヤ教のアイデンティティーや思想とは大きく隔たっているが、キリスト教のルーツはヘレニズム・ユダヤ教にある。キリスト教徒は、神がアブラハムやイスラエルの民と交わした約束を、代わって遂行するのがイエスであり、イスラエルはすべての民にとって神の恵みだと信じている。キリスト教徒の多くは、法がイエスによって「完成され」て、信仰とは無関係になったと考えている。ユダヤ教徒ほかすべての異邦人はキリスト教徒になり得るため、キリスト教徒は一般的に、自分たちの宗教は非常に包括的であると信じている。しかしユダヤ教徒はキリスト教を、非常に排他的だと感じている。これはキリスト教の一部の宗派が、ユダヤ教その他の非キリスト教徒は神との関係が不完全なために、神の恵みや救済、天国や永遠の命から除外されるとすることによる。一部のキリスト教徒にとって、イエスは恩寵をもたらす救世主であると信じることは「明白な」規定の信条であり、他の方法で救済を得ることはできない(プロテスタントでいうキリストのみ、カトリックでいう教会外に救済なし、二契約神学を参照)と考える。カトリックでは、聖別の恩寵は通常サクラメントを通じて得られるが、サクラメントの外でも与えられる(Invincible ignorance fallacy を参照)。 2つの宗教のこの違いは重要であり、他にも影響を及ぼすことになる。一例を挙げれば、ユダヤ教へ改宗する場合、転向者はユダヤ教の基本的な信仰原則を受け入れねばならず、他のすべての宗教を捨てなければならない。その過程は養子縁組や国籍変更にも似ており、転向者は「アブラハムとサラの子」となるとされる。歴史的・宗教的理由から、ユダヤ教徒は他者をユダヤ教に勧誘することを奨励されていないため、ユダヤ教に改宗したいと思う者自らが率先して行動する必要がある。対照的にキリスト教は、大宣教命令に従って各宗派ほとんどが積極的に転向者を募っており、キリスト教への改宗は通常、信仰宣言となる(しかし一部宗派はキリスト教コミュニティへの加入を、また正教会は信者の一団のメンバーになることをこれに代える)。 キリスト教とユダヤ教は、どちらもそれぞれの信者の多様な文化から影響を受けている。例えば、東ヨーロッパと北アフリカ出身のユダヤ教徒は、同地区の非ユダヤ教徒と同じものを食べているが、信心深いユダヤ人は、すべての食材調整がカシュルートに適合していなければならないと考える。非正統派のユダヤ教徒と著名な歴史家によれば、ユダヤ教のトーラーもまた周囲の文化の影響を受けているという。例えば一部の学者は、ユダヤ教で唯一絶対の神が形成されたのは、アケメネス朝ペルシア支配下、ゾロアスター教の二元論に対する反動からだと主張している。またユダヤ教徒が中世に複婚を否定したのは、周囲のキリスト教徒に影響されたためだという。正統派のユダヤ教徒からも、ユダヤ人の慣習が周囲に感化されて変化した例が挙げられている。この理由から、ヨセフ・カロ著『シュルハン・アルーフ』がユダヤ律法の権威ある規約となるために、モーゼス・イッサーリスが地域習慣の変化について解説を付け加えるのを待たなければならなかった。
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